2011 BBC PROMS 62:イスラエルフィル/メータ/シャハム(vn):テロリズムの憂鬱2011/09/01 23:59


2011.09.01 Royal Albert Hall (London)
BBC Proms 2011 PROM 62
Zubin Mehta / Israel Philharmonic Orchestra
Gil Shaham (Vn-2)
1. Webern: Passacaglia, Op. 1
2. Bruch: Violin Concerto No. 1 in G minor
3. Albéniz: Iberia - Fête-Dieu à Séville; El Puerto; Triana
4. Rimsky Korsakov: Capriccio espagnol

1985年の来日公演を大阪で聴いて以来、超久しぶりのイスラエルフィルです。このときは、敬愛して止まないバーンスタインの生演奏を聴けた最初で最後の機会でもありました。

ホールに着くと、外では何かデモをやっている様子。イスラエルの国旗がはためいている傍らではパレスチナ問題のチラシを配っている人々がいて、いつもとちょっと雰囲気が違います。入場の際には手荷物の検査があり、物々しい空気です。


本日は上のサークル席。ステージが遠いし気温が暑いです。ホール内は別段普段と変わった様子はなく、時間通りにオケが登場し、オーボエがこの日の演目である「スペイン奇想曲」のフレーズを吹いてAで伸ばすというお茶目なチューニングをやって笑かしてくれました。そして仏頂面のメータが登場。私がちょうどクラシックを深く聴き始めたころ、メータはNYフィルの音楽監督に就任し、毎月のように新譜をリリースして絶好調の時期でした。レコードやFMを通して非常によく聴いた指揮者ではありましたが、生で見るのは今日が初めて。今ごろになって巡り会えるとは、何とも感慨深いものがあります。

1曲目の「パッサカリア」は、大編成とはいえ後の作風を先取りするかのようにどこかミニマルで繊細な味のある曲なので、この巨大なホールにはやっぱりそぐわないのかな、などと考えながら聴いておりましたら、突然あるはずのない合唱の声が被さってきたので驚いたというか、何が起こったのかすぐには頭が理解できませんでした。声の方向を見てみると、コーラス席にいた10数人が立ち上がって「FREE PALESTINA」と一文字ずつ書かれた布を掲げつつ、演奏中にもかかわらずベートーヴェンの「歓喜の歌」を高らかに歌っているではありませんか。聴衆の中には「シーッ!」と注意を促す人もいましたが、多くは息を呑んで成り行きを見守り、オケも中断することなくそのままクールに演奏を続けて、駆けつけた警備員にデモ隊はほどなく引っ張り出されました。妨害にもめげずに演奏を敢行した指揮者とオケには満場の拍手喝采でした。

気を取り直して2曲目のブルッフ。笑顔のシャハムとメータが登場し、さあ演奏開始となったときに、今度は右方のサークル席で突如立ち上がって「フリー!フリー!パレスチナ!」と叫び出す数人が。聴衆からブーイングと怒号が飛び交う中、デモ野郎は周囲の客と小競り合いしながらも、警備員によって速やかに排除されました。メータとオケは「こんなことは慣れっこだぜ」とでも言わんばかりに平静を保ち、デモ野郎がまだ抵抗して騒いでいる中、ティンパニに指示を出してさっさと演奏を始めていました。

シャハムは昨年聴いたときは調子が悪そうだったのですが、今日はこのような逆境にもかかわらず絶好調に見えました。終始笑顔を絶やさず、演奏に喜びが溢れています。ブルッフの1番は今まで五嶋みどり諏訪内晶子という日系女流奏者で立て続けに聴きましたが、そのどちらとも違ってシャハムはさっぱり明るく、粘着した情念など何もない非常にスポーティな演奏でした。上機嫌のシャハムは1回のコールで早速アンコールのバッハ(無伴奏パルティータ第3番のプレリューディオ)を余裕で演奏。心無い者の妨害行為はありましたが、このサービスで心洗われる気分でした。


私の腕前では、この距離でピンボケしないのは無理難題です。

そうそう、ブルッフだけはティンパニが一見して日本人の奏者に交代しており、後で調べたら神戸光徳(かんべみつのり)さんという昨年入団したばかりの若者だそうです。逆ハの字でロールを叩くのが個性的ですが、シャープな打ち込みが頼もしい、雄弁なティンパニでした。オケ全体では、ちょっと響きとリズムが重たいという印象はありましたが、定評のある弦はさすがに美しいものでした。

さて休憩後はスペイン特集。アルベニスの「イベリア」は初めて聴く曲です。指揮者が棒を振りかぶったその瞬間、またしても、今度は左方ボックス席から大声で「フリー!フリー!パレスチナ!」。満場のブーイングと「出て行け」コールが湧き上がり、犯人は即座に警備員に排除されましたが、この人などは見たところ会場のどこでも普通にいそうな白人の老紳士で全然デモ隊っぽくなく、これではどこに仲間が紛れているのかさっぱりわかりません。今度はメータも騒ぎが収まるまで手を下ろしてじっと待ち、さて気を取り直して手を再び上げたとたんに、サークル席後方で立ち上がって叫びだす別の集団。警備員が駆けつけて排除したら、またサークルの別の席から男女が立ち上がってシュプレヒコール。明らかに組織的で計画的な行動でした。もういい加減にしてくれという飽きれの感情が交じったブーイングが続き、いかにも狂信者っぽい顔立ちの男女が外に連れ出されて、やっとこさ演奏が始まりました。しかしもはや音楽に無心で耳を傾けるという気分ではなく、興を殺がれたとはまさにこのことです。

最後は「スペイン奇想曲」。まだしつこく迷惑野郎は潜んでいたみたいで、数人が立ち上がりかけましたが、拍手が鳴り止まないうちにさっさと演奏を始めたためにタイミングを失い、そのまま静かに退場させられていました。妨害も何とせず、オケはいたって冷静に演奏を進めていました。やっぱり重い音にはなっていましたが、野太い木管、渋い弦と、軽やかなカスタネットの対比が面白かったです。金管はちょっと陰が薄かったです。困難の中、何とか演奏をやり遂げた奏者に対するひときわ盛大な拍手に答えて、アンコールはプロコフィエフの「ロミオとジュリエット」から定番の「ティボルトの死」。早めのテンポで無骨に突き進むのが何とも格好いい演奏でした。

メータは全てを暗譜で指揮し、軽めの選曲ながら重厚で彫りの深い演奏に終始していましたが、ずっと仏頂面で(いつもそうなのかもしれませんが)ちょっとテンションは低く見えました。このようにしつこい妨害行為を食らったのではそれもいたしかたないのかも。

それにしても卑劣な妨害を執拗に行った迷惑連中は、全くけしからんやつらですな。ホロコーストやその他無数の迫害を受けてきたユダヤ人の受難の歴史があるとは言え、現在の中東情勢の中でパレスチナ問題に対するイスラエルの罪も大きいことは否定しません。しかし、自らの政治的主張のためには何をやってもよいのだ、と考えるのはただのテロリズムです。音楽を生業とするイスラエルフィルを攻撃するのは全くのナンセンス。ただ、普段慣れ親しんできたコンサート会場にこのようなテロリストが数十人もまんまと潜入し、組織的なテロ行為が起こってしまったという事実には、空恐ろしくて憂鬱になってしまいます。先日の暴動騒ぎを見るに、イギリス人はいとも簡単に暴徒化するし、今後政治的にきな臭そうな演奏会があったら、近づかないほうが無難なのかも。そういう意味では、デモ隊と一般聴衆の小競り合いが大喧嘩、フーリガニズムに発展しなかったのは、サッカーとは客層が違うとはいえ奇跡だったのかもしれません。

京都その1:建仁寺2011/09/03 23:47

話は前後してしまいましたが、8月は長めの休暇をもらって日本に帰っておりました。京都の実家には今回1週間以上滞在し、こんなに長く実家に泊まったのは、大学で東京に出て以降初めてかも。しかし、長くいたからといって特に何をしたわけでもなく、とにかく暑いので外に出る気も起きず、うだうだとしていた時間が多かったのですが、家族サービスで多少オノボリサンもやりました。

娘が夏休みの絵画コンクールで、今年は龍の絵を描きたいと言うので、それなら龍の天井画でも見せてあげようかと、最初は家からも近い天龍寺に行こうと思ったら拝観日ではなかったので、それならばと建仁寺にしました。


京都生まれでありながら、ここに来るのは初めてです(多分)。そもそも京都人は皆が皆、寺社仏閣に詳しいわけではありません。行こうと思えばいつでも行けると思って結局行かない人も多いはず。私なんかより、寺社仏閣マニアで京都の大学に通っていた妻のほうがよっぽどエキスパートなので、私はただの運転手でした。


目指すは法堂。ここの「双龍図」は小泉淳作の手による新作で、平成14年に奉納された、龍の天井画としては極めて新しいものです。


建仁寺はどこでも写真撮影OKという非常に太っ腹なお寺さんです。本尊がかすむほどの迫力ある双龍図は、やっぱり一見の価値がありました。娘も大喜びです。


絵が新しいので、天龍寺や妙心寺の天井画と比べると、ずいぶんとギラギラして、躍動感が凄いです。禅寺には浮いていると言えばそうですが、なに、異なった時代の様式が同居するのは洋の東西問わずよくあることですし、あと100年もすればしっくりと溶け込んでいることでしょう。


ここには他に、海北友松によるふすま絵の「雲龍図」もあり、こちらは禅寺らしいわびさびの世界です。


建仁寺といえばさらに有名なのが国宝の俵屋宗達作「風神雷神図屏風」。オリジナルの本物は京都国立博物館所蔵になっているのでここにはありませんが、方丈(本坊)の玄関を入るさっそく陶板のレプリカが飾ってありました。


方丈の中庭に面した部屋には、屏風絵のレプリカもありました。複製なのにガラスケースで厳重にブロックされています。


その横には「風神」「雷神」と同じレイアウトで書かれた書道が。これなどはまさに「記号化」で、ポストモダンの香りがしますね。作者は金澤翔子さんという弱冠26歳の書家だそうです。


方丈の中庭(海潮庭)。他の庭はほとんどが工事中で見れなかったのは残念でした。


建仁寺はいわゆる祇園のお茶屋通りである花見小路沿いにあり、夕方になると芸妓さん、舞妓さんがしゃなりしゃなりと歩いているそうですが、昼間は見かけず。恥ずかしながら、この通りを歩いたのも初めてのような気がします。いやー、全くのオノボリサンですなー。


ランチにと入ったのは元祖ぶぶ漬けの人気店「十二段家」。定番の名物定食(1580円)は、薄味で出汁がきいていて、どの皿も本当に上品。良い味でしたが、私の感覚では、これは全く京都の家庭の味。きばって外で食べるようなものではないと思うし、十二段家のブランド名がなければ1580円の値段設定はとてもできないでしょうね。でも、こういう「普通の味」が今では稀少になって来ているのかもしれません、残念なことに。

次回に続く。

京都その2:五山の送り火、天一のラーメン、十兵衛のあんかけうどん、松水の鮎2011/09/04 08:00

今回の京都では、もう一つ、今更ながらのビッグなオノボリサンがありました。今まで、夏に帰省するにしても混雑を避けるためお盆の時期は絶対外していたので、8月16日に京都にいるのは自分にとって非常に珍しく、今後もめったにないだろうということで、京都で最も有名な伝統行事の一つ「五山の送り火」をこの機会に見に行ってみました。

松尾橋から桂川に沿って嵐山に向かって歩いていくと、気合いの入ったおじさんが三脚を立ててスタンバっていたので、ここなら多分よく見えるんだろうと判断、その場を陣取って待ちました。そうこうしているうちに人がどんどん増えてきて、点火開始の8時になりましたがなかなか火がつかない。携帯のワンセグでテレビ中継を見ながら今か今かと待っていたら、5分くらい遅れてようやく最初の「大文字」が点火。見えました見えました!


8時20分ごろ点火の最後の送り火「鳥居」もバッチリ正面から見えて、大満足。


五山の送り火を見たのは、本当に何十年ぶりだろうか。「鳥居」は近いから見えるとしても、「大」まで見えるとは正直期待していなかったので、2つも見れてラッキーでした。今年亡くなった親族、友人、震災の犠牲になった人々、キャンディーズのスーちゃん、などなど、大切な精霊をしかと見送れた気がしました。

がらりと変わって食の話。京都に帰るといつも行ってる近所の焼き肉屋で、相変わらず激うまい脂ジュージューのロース、カルビをしこたま食い、食中毒騒ぎなど何のその、大好物のユッケと生レバ刺しも普通に注文したら普通に出て来たので、美味しくいただきました。食うのに夢中で写真を撮るのを忘れたのが残念。(迷惑かかるといけないので店の名は伏せます。)

京都のラーメンと言えば、定番はやはり「天一」こと「天下一品」。多くの京都人が美容と健康ために毎日飲み会のシメとして食べている一方、嫌いな人はとことん毛嫌いするという、ある意味キワモノです。


チャーシューメン、デフォルトはこってりスープ。このニンニクの効いた濃厚・高粘性のスープがたまらない。量がほどよいので、意外なくらいするりと身体に入ります。


こちらは自分では決して頼まないあっさりスープ。これはこれでけっこうイケる味なんですが、あのこってりスープが恋しくて天一に来るわけなので。

今回初めて行ったのは、桂坂にある十兵衛という手打ちうどんのお店。ここのうどんは「ちゃんどん」というあんかけが基本で(セットメニューにはあんかけじゃない普通の出汁のうどんもある)、行列ができる人気店だそうです。


これは牛肉のちゃんどん。出汁の味はよかったです。が、あんかけなので猫舌の私には食べにくく、そもそもこのくそ暑い京都の夏の昼食に食べるにはちょっと適切でないチョイスでした。弟は汗をかきかき、上手い上手いと食べていましたが。麺は讃岐のようなしっかりとした腰があるわけではなく、弾力性があってスープによくからむ麺です。これこそまさに、「弱腰でない柳腰」。結局麺の量が多くて食べきれませんでした。この店的には邪道かもしれませんが、あんかけじゃないさっぱりしたのを食べたいなあ。


あとはおまけで京都以外の話を。京都人はレジャーで琵琶湖によく行くのですが、松水という鮎料理のお店に子供のころからよく連れてってもらってました。今ではうちの娘が大ファンになり、特につかみ取りした鮎を生きたまま串にしてその場で焼いて食べると言う経験が、この上なく刺激的な様子です。


哀れ、焼かれる直前の鮎くん達。琵琶湖の鮎は基本的に養殖ですが、餌や養殖技術の改良により、できるだけ天然ものに味を近づける努力がなされているということです。確かに、昔に比べて味はますますよくなったし、骨抜きもしやすくなった(昔の養殖は骨が柔らか過ぎてすぐ切れた)という気がします。


私は頭と背骨を除いて食べますが、ワイルドな人ならその気になれば頭から骨から全部食べれないことはありません。

コースには小鮎のてんぷらもあり、独特のほろ苦さがたまらんかったです。

だいたい何でも手に入るロンドンとはいえ、天一のラーメン、脂ジュージューのカルビ焼肉、活鮎の塩焼きなどは望めるはずもなく、今のうちと食いまくりの休暇をすごしていたおかげで体重が一気に増え、ただでさえピンチだったズボンが、もう絶望的にパンパンです。ということで、食品のカロリーがいちいち気になる今日この頃です。

UK Amazonで日本映画2011/09/07 07:41

もう数ヶ月前の話になりますが、Amazon.co.ukをつらつらと見ていて、日本映画がけっこうあるのに気付きました。かつて熱狂した映画が£5くらいで売っているのを見て思わずポチポチっと買ってしまったのが下の二つ。



狙ったわけではありませんが、どちらも高倉健主演、佐藤純彌監督の作品でした。言わずもがなですが、後者は角川映画第3弾の「野性の証明」です。

一気に見てしまいましたが、いやー、面白かった。あらためて見てみると「野性の証明」はありえねーだろーという展開の連続で、ストーリー完全に破綻してますが、勢いだけで一気に最後まで見せてしまいます。それに、出てくる役者さんのかっこいいことといったら!高倉健はもちろんのこと、三国連太郎、夏八木勲、田村高広、松方弘樹、梅宮辰夫、成田三樹夫、館ひろし、丹波哲郎、寺田農、皆それぞれ役どころをがっつりとつかみ、出番の長い短い関係なく、この人以外に想像できないと思えるほどのハマリっぷり。よくもまあこんな映画に(失礼!)真顔でここまで仕事ができるもんだと感心しました。よっぽどギャラが良かったんでしょうか。

「新幹線大爆破」は、欧米ではアクションスターとして超有名な「ソニー千葉シリーズ」の1本です。アメリカやフランスで公開された短縮板でなく、オリジナル152分の尺で収録されているのが嬉しい。この作品、確かに千葉真一は出てますけど、新幹線の運転手というアクションの一切ない地味な役どころ。でも、芸の濃いい人々の狭間で、彼でなければ出せない存在感はビンビン立ってます。こちらは何度見ても掛け値なしに面白い映画です。

2011 BBC PROMS 72:フィラデルフィア管/デュトワ/ヤンセン(vn):華麗なる魔術師サウンド2011/09/08 23:59


2011.09.08 Royal Albert Hall (London)
BBC Proms 2011 PROM 72
Charles Dutoit / Philadelphia Orchestra
Janine Jansen (Vn-2)
1. Sibelius: Finlandia
2. Tchaikovsky: Violin Concerto
3. Rachmaninov: Symphonic Dances
4. Ravel: La valse

私もけっこういろんなオケを聴いてきましたが、フィラデルフィア管は自分にとって「まだ見ぬ強豪」の筆頭でした。プロムスは毎年世界中から一流の楽団が客演しに来るお祭りですので(チケットは決して安いとは言えませんが)、私のようにコレクター気質で広く浅く聴き漁るタイプのリスナーには重宝です。そのプロムスも今年はこれが最後のチケット。開場前にアルバート記念碑の前でばったり会ったかんとくさんと、我々駐在員はしょせんそのうち日本に帰る運命、これが生涯のプロムス見納めかもなどと話しつつ、しみじみとしてしまいました。

フィラデルフィア管はまずざっと見て、アジア系団員の多さが目に付きました。コンマスを筆頭に各パートのトップもアジア人率が高い。男女比は男性中心、年齢は若くもなく年寄りでもなく、中年〜壮年の層が厚い感じでした。そう言えば、今年4月に破産法の適用になったとのニュースがあり、演奏会ツアーのキャンセルなどをちょっと心配していたのですが、見たところそんな事情は全く匂わせず、いたって普通でした。

1曲目の「フィンランディア」は、部活のオーケストラで初めて出番をもらい(トライアングルと大太鼓ですが)舞台に立った記念すべき曲で、後年再び演奏した際には美味しいティンパニも叩きました。練習でいやになるほど繰り返し聴きこんでいますので、初めて聴くオケの力量を推し量るにちょうどよい曲ではあります。重く冷徹に始まったブラスは想像よりも硬質でモノクロームな音で、かつて「華麗なるフィラデルフィアサウンド」と賞賛された派手派手なイメージとはちょっと違いました。デュトワも「音の魔術師」との異名を欲しいままにする仕事人ですが、このコンビでは指揮者が完全にオケを掌握しコントロールしている印象です。金管はちょっと抑え目で、木管と弦の質が非常に高いのがヨーロッパ的バランス。冒頭はとことん粘って重くしておきながら、中間部の有名なメロディを軽くさらりと流してしまうのも、何となくフランス的エスプリに思えました。ティンパニは叩き方がスマートではなく個性的ですが、音は非常にしっかりしてオケの引き締め役になっていました。

続いてチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。初めて見るヤンセンはプロモーション用の華奢美人の写真とはだいぶイメージが違い、大柄長身の姐御肌な女性。お腹周りや二の腕にちょっとお肉も付いてきた感じですが、今でも美人には違いないのだから、写真をそろそろ成熟した大人の色気バージョンに変えてはどうでしょうか、って大きなお世話か。軽口はともかく、その大柄な外見とはうらはらに、極めて繊細に整えられたヴァイオリンでした。透き通る高音は一筋の曇りもなく、速いパッセージは淀みなくメカニカルに駆け抜け、スタイリッシュに洗練されています。しかしまあ、このホールのサークル席だと舞台との距離はいかんともしがたく、ヴァイオリンの音も耳に届く間にだいぶ痩せてしまっているのはしょうがないので、本当はかぶりつきで聴きたかったところです。あの体格と弾き方から見るに、出ている生音はもっと力強いものだったに違いない。アンコールはバッハのパルティータ第2番から「サラバンド」。あまりにアクロバティックな曲より、こういったしっとり系のほうが本来の持ち味かなと感じました。


拍手に応えるヤンセン。存在感あります。

休憩後はラフマニノフの最後の作品、シンフォニック・ダンス。実は、ほとんど初めて聴く曲です。フィラデルフィア管は70年前にこの曲の初演をやった楽団なんですね。ここでもデュトワの統率は冴えていて、語り口の引出しが多い、よくドライブされた演奏でした。最後のラ・ヴァルスも、これまた徹底的にオケを振り回した異形のダンス。最後の追い込みは圧巻で、満場の拍手喝采となりました。アンコールでは普通と逆でデュトワが花束を持って出てきたので何かアニヴァーサリーでもあるのかと思いましたら、その通り、勤続50年(!)の団員を祝福するためでした。そのままベルリオーズの「ラコッツィ行進曲」を演奏。

デュトワはこれまでモントリオール響、NHK響、ブダペスト祝祭管を振ったのを聴きましたが、トータルの印象では、どこを振ろうとも徹底的に「自分のオケ」にしちゃう人なんですね。フィラデルフィアにしても「華麗なる」と枕詞が付いた時代の後、サヴァリッシュ、エッシェンバッハというドイツ系指揮者の時代が長く続くうちにも徐々に変質してきたんでしょうけど、アメリカ的な明るさと馬力で押す突進力は影をひそめ、今やすっかり垢抜けたフレンチテイストを色濃く感じました(まあ、デュトワはスイス人ですが、ローザンヌだから文化的背景は全くフランス圏)。弦と木管の音色を磨き上げ、打楽器はどこまでもリズミカルに、でも金管はわりとおまけ、みたいな。実はまだ聴いてないのですが、現在芸術監督をやってるロイヤルフィルも、そんな感じの音に仕上がっているに違いあるまい。フィラデルフィアは来年から、ロンドンではお馴染みのネゼ=セガンが(こちらも実は未聴なんですが)音楽監督に就任するとのことで、フランス系が続きますね。是非早く経営不振から立ち直って、華麗なるサウンドを世界中に振る舞ってもらいたいものです。

プロムス終了までをシーズンの区切りと定義すれば、2010-2011シーズンは結局66の演奏会・観劇に行った勘定になりました。自分としては新記録です。東京圏でもやってるコンサートの数自体はロンドンにひけをとらないでしょうが、時間の融通や会場へのアクセスといった環境面の違いは決定的で、このような演奏会通いができるのも本当に今のうちだけです。私はゴルフはやらないし、特にスポーツもしないし、サッカーを見に行くわけでもなし、バンド仲間はこちらにはいないし、今はこれくらいしか趣味がありませんので、日々生きていくための最大の滋養源として欠かせないものです、はい。

おまけ。プロムスの立見アリーナの床に、こんな絵があったんですね。普段は入場したらすでにアリーナは人でいっぱいだし、コンサートが終わったら一目散に外を目指すので、今まで気付きませんでした。


ジョン・ケージ・ナイト:4分33秒の不安と、0分00秒の納得2011/09/13 23:59


2011.09.13 Queen Elizabeth Hall (London)
John Cage Night
performed by Apartment House:
Nancy Ruffer (Fl), Andrew Sparling (Cl)
Gordon Mackay (Vn), Hilary Sturt (Vn)
Bridget Carey (Va), Anton Lukoszevieze (Vc)
Philip Thomas (P), Simon Limbrick (Perc)
1. Cage: 4' 33" (1952)
2. Cage: Radio Music for eight performers (1956)
3. Cage: Child of Tree for solo percussion (1975)
4. Cage: Concert for piano & orchestra/Fontana Mix (1957-58)
5. Cage: String Quartet in four parts (1949-50)
6. Cage: Music for eight (1984-87)
7. Cage: 0' 00" (4' 33" No. 2) (1962)

実はワタクシ、「4分33秒」のCDなるものを持っております。ハンガリーのアマディンダ・パーカッショングループのCDを買ったら他のケージの曲と一緒に入っていたのですが、当然ながら収録されているのは4分33秒分の「無音」で、そのCDを聴くときは結局そのトラックはスキップしてしまいます…。やはりこの曲は実演を体験してこそナンボ。遠い将来、孫に「その昔、“4分33秒”という風変わりな曲があってのう…」と昔話を語ってやりたいと、ほとんどそれだけのために足を運びました。

ジョン・ケージ・ナイトと題したこの演奏会は、International Chamber Music Festival 2011/12の開幕でもあります。文字通りケージの作品(「曲」とか「音楽」とはもはや言えないものもあります)だけを初期から晩年まで網羅するプログラムで、全くの変化球とはいえ、室内楽でシーズンを開けるとは私として非常に珍しいことです。チケットはソールドアウトで、リターン待ちの行列ができていました。最初に司会の人が出てきて、シーズン開幕の挨拶と共に、この著名な作品の上演にあたって、くれぐれも携帯の電源を切るように、と念押しをして笑いを取っていました。

「4分33秒」はプログラムによると初演時の演奏時間に倣って第1楽章30秒、第2楽章2分40秒、第3楽章1分20秒とおおよその演奏時間が規定されております。ピアニストが一人で登場し、ピアノの前に座って、鍵盤にすっと手を伸ばし、音を出さずに指を軽く鍵盤に置いたままの姿勢でじっと30秒待ちます。ストップウォッチか何かで正確な時間を計っている風には見えませんでした。第1楽章が終わると一旦手を引っ込め、再び手を出して、今度は2分40秒じっと動きません。第3楽章も同様です。自分の腕時計を見ていた限り、概ねその通りの時間を守った「忠実な演奏」でした。まず感じたのは、この居心地の悪さは他にないなあ、ということ。普段の演奏会場と比べたらこれ以上はないというほどの静寂がありましたが(普段もこのくらい静かだったらなあ!)、当然のことながら完全な無音状態は実世界ではほとんどあり得ず、小さな咳の音、衣服や紙のこすれる音、ヒソヒソ声に加えて、キーンという軽い耳鳴りも絶えず体内に鳴っており、かのように世界はノイズに溢れているのに、奏者の発する音だけが何も聴こえないというこの不条理。子供のころのかくれんぼ遊びで、暗がりで声をひそめ、音も一切出さないように隠れていると、何故だか笑いがこみ上げてきてしまうあの懐かしい感覚も少し思い出しました。私は修行が足らないのでしょう、そんなこんなの邪念だらけで、静寂を無心に享受するには程遠く、気持ちの落ち着かないことと言ったらありませんでした。逆説的な意味で、近年これほど心を動かされた「演奏」もそうそうありません。ただ、また聴きたいかと言うと微妙なところ。一度体験したらもういいや、という思いと、でもちょっと病みつきになってしまいそうな麻薬性も半分感じます。これがもし「14分33秒」だったら二度と御免ですが、5分弱という時間がなかなか絶妙ではあります。

2曲目の「ラジオ音楽」は8人各々が大小さまざまなラジオを持って出てきて、(多分)楽譜の指示に従いつつチューニングを動かします。聴こえてくるのはノイズだったり、ニュースだったり、音楽だったり、演奏中にオンエアされている放送プログラムによって内容が変わる「不確定性の音楽」ですが、果たしてこれは「音楽」と言えるのかと素朴な疑問が。それを突き詰めて考えるのがすなわちケージの「音楽」なんでしょうけど。

3曲目、ソロ打楽器のための「木の子供」は、全て植物が原材料の、伝統的な楽器とはとても見なせないような様々なオブジェクトを叩いたりこすったり折ったり破いたりして、出た音をマイクで拾い拡声します。鉢植えのサボテンがチャカポコとけっこういい音がしていました。これも、いい年したおっさんが道端に落ちている木の切れ端を適当に叩いて遊んでいるのと何が違うのか、よくわかりません。


4曲目の「ピアノ協奏曲/フォンタナ・ミックス」はプリペアード・ピアノに弦楽四重奏、フルート、クラリネットという編成で、ようやく普通の楽器が出てきてほっとしました。このような曲でも(失礼!)、演奏前にちゃんとチューニングをやるんですねえ。しかし曲はやっぱり実験的要素の強い「不確定性の音楽」で、フルスコアはなく、各パートの断片をアトランダムに繋げてぶつけていくというもの。ただ楽器を演奏するだけでなく、ピアニストは横に置いたペンキ缶のようなものを叩き、他の奏者も時々掛け声のような声を出したり、足を踏み鳴らしたりと賑やかです。演奏時間は20分近くもあり、とにかく長かった。

休憩後の最初は弦楽四重奏曲。初期の作品で、これははっきりと調性・旋律の明確な音楽をベースにメタモルフォーゼしていった感じで、不協和音は多いものの、不安定さや不確定さはなく、格段に聴きやすい音楽でした。むしろ不安定だったのは音程で、ただこれも含めて楽譜に忠実だったのか、あるいはただ単に奏者の力量不足かは判断つきませんでした。

続く「8人のための音楽」は逆に最晩年の作品で、先の「ピアノ協奏曲/フォンタナ・ミックス」とコンセプトはよく似ています。ただし受ける印象はずいぶんと違っていて、多数の小物打楽器と銅鑼代わりの鉄板、床に置いたチャイナシンバル等に囲まれた打楽器奏者が絶えず何か音を出し続け、時にはうるさく叩きまくって、それが20分という長丁場で曲全体の包絡線を形作るのに役立っていました。ピアノはプリペアードではなさそうでしたが、馬のタテガミを弦に通し、引いて音を出すという、相変わらずの飛びっぷりでした。皆さん、一所懸命楽譜を見ながら演奏しておりましたが、いったいそこには何が書いてあるのか興味あります(実は何も書いてないんじゃないのか、何て…)。

最後は「0分00秒」という、「4分33秒」の第2番という位置づけの作品。Wikipediaで調べると、初演は日本で行われたようです。ここでは演奏者が何か「日常的な行為」を行い、その音がマイクとアンプを通して拡声されるというコンセプトだそうですが、この日彼らが選んだ「日常的な行為」は何と「後片付け」。前の曲が終わって一旦引っ込み、またすぐ出てきていそいそと楽器や譜面台を片付けていくものだから、一部の人はもう演奏会が終わったものと勘違いし、席を立ってどやどや帰っていきました。しかし、片付けのノイズがちゃんとピックアップされてスピーカーで流れていましたので、これがまさに今日の「0分00秒」なのでした。一石二鳥のよいアイデアですが、一つ気になったのは、この作品では「すでに行ったことのある行為を採用してはならない」そうなので、果たしてこのアイデアは過去に一切誰もやらなかったのかな、と。まあ、演奏機会がそんなにあったとも思えないし、多分大丈夫なんでしょう。

私はケージの芸術にも、モダンアート一般にも、造詣はほとんどありませんし、お前は今日のパフォーマンスが理解できたのかと聞かれたら、多分さっぱり理解してないと答えるしかないでしょう。ただ、昨年ヴァレーズをまとめて聴いた際にはその突き放したような前衛音楽の前にあえなく討ち死にしましたが、今日も前衛ぶりではひけをとらないプログラムだったにもかかわらず、不思議と心にすんなり溶け込んでくるような「身に馴染む」感覚がありました。ケージが禅に傾倒していて、東洋的(または非西洋的)なものを探求し続けていたことが、もしかすると関係あるのかもしれません。

ロイヤルオペラ/グリゴーロ/ゲオルギュー/パーペ/ホロストフスキー:グノー「ファウスト」初日2011/09/18 23:59


2011.09.18 Royal Opera House (London)
Evelino Pidò / Orchestra of the Royal Opera House
Original Director (David McVicar), Lee Blakeley (Revival Director)
Vittorio Grigolo (Faust), Angela Gheorghiu (Marguerite)
René Pape (Méphistophélès), Dmitri Hvorostovsky (Valentin)
Michèle Losier (Siébel), Daniel Grice (Wagner)
Carole Wilson (Marthe Schwertlein)
Royal Opera Chorus
1. Gounod: Faust

シーズンオープニングのプッチーニ「三部作」はパスし、今日の「ファウスト」初日が我が家のROHシーズン開幕です。この作品はおろか、グノーのオペラ自体が初めてでした。

先日の「トスカ」をも上回る豪華布陣の歌手陣は、皆さんさすがに期待を裏切らない素晴らしい歌唱で、これぞロイヤルオペラの真骨頂とたいへん満足できるステージでした。

ルネ・パーペは初めて見ますが、精悍なお顔立ちのプロモ写真のころからずいぶんと太られたようで、貫禄十分。地響きのような低音は長丁場出ずっぱりでも一向にヘタることなく、演技も含めて完璧な仕事ぶりでした。第4幕の女装は意外と中性的で、品があってよかった。もう一方の「低音組」ホロストフスキーも、ロンドンではお馴染みの顔みたいですが私は初めて。この人も今日は絶好調に見え、芯のある低音に、力を込めた誠実な歌唱が、カタブツお兄ちゃん役にぴったりハマっていました。芸幅はあまり広くなさそうだけど、良い声です。この二人は、原発事故後、多くの歌手・演奏家があれやこれやの口実で訪日をキャンセルする中、6月のMET日本公演にちゃんと出てくれたそうな。まさに漢の中の漢、かっきいー。

タイトルロールのグリゴーロは昨年の「マノン」でROHデビューして以来、待望の再登場でした。一人だけ突出して若いこともあって、とにかくこの人は元気がよい。相変わらずよく通るシャープな大声と軽い身のこなしは、若返ってはしゃぐファウスト博士にうってつけで、彼が登場するとそれだけで舞台が躍動感に満ちていました。ただ、「ファウスト」のテナーのアリアは、ハイトーンを取ってつけたように張り上げる曲ばかりで、正直出来が良くないと思うので、その分ちょっと割を食ってしまったような。また、ネトレプコとのからみがほぼ全てだった「マノン」と違い、「ファウスト」では相手役のゲオルギュー以外に、パーぺやホロストフスキーとのからみがむしろキモだったりするので、さすがに一番美味しいところを食ってしまうとはいかなかった様子です。アリアやカーテンコールではもちろん大きなブラヴォーをもらっていましたが、最大級とまでは言えず。今回は周囲の先輩達からとことん吸収させてもらうくらいの謙虚さでいたほうが良いのでは、と、カーテンコールでの大げさな彼の立ち振る舞いを見て、少し心配してしまいました。

さすがのゲオルギューも、この声のでかいメンバーに入ると繊細さが際立ちます。最初はちょっとか細すぎやしないかと思いましたが、要所はしっかりと締めて、エネルギーを温存しつつベテランの表現力で勝負していました。ちょっと頬がこけたように見えましたが、清楚な金髪のゲオルギューはまだまだ十二分にイケる美貌で、特に第1幕でスクリーン越しに幻影として現れ、ノンスリーブで身体を拭く姿は妖艶の一言。最終幕、髪を短く切られてみすぼらしい衣装のままでカーテンコールに出なければならなかったのは、ちょっと気の毒ではあります。

あとはズボン役ジーベルのミシェル・ロジエ、ロイヤルオペラは初登場だそうですが、非常に綺麗な透き通る声がいかにもうぶな少年っぽくて役によく合っていました。この人も声がでかかった。男役でも女役でもまた是非聴いてみたいと思ったメゾ・ソプラノです。

今日はオケにも一貫して集中力があり、たいへん良かったです。開幕前、上着を脱いでいる団員数人を見つけたときは嫌な予感がしたのですが、幸い杞憂でした。初日だということもあったんでしょうが、パッパーノ大将がいなくても俺たちゃやるときはやるぜ、というプライドを垣間見た気がしました。

演出については、このマクヴィカーのアイデア満載で見所たくさん、凝集度の高いプロダクションは、シンプルに楽しめるものと私は肯定的に捉えましたが、妻は気に入らず、まあ賛否両論でしょうね。この人はやっぱり問題児、要注意人物です。第2幕のキャバレーダンスはまだ微笑ましくても、第5幕のワルプルギスの夜のバレエは、臨月の妊婦を振り回したり、バレリーナに乱交させたり、ちょっと悪趣味が過ぎると言われても仕方がないでしょうね。先日帰国した際、予習用にと買ってみたディゴスティーニ「DVDオペラ・コレクション」の「ファウスト」(ケン・ラッセル演出、ウィーン国立歌劇場)ではこのバレエ・シーンはまるまるカットされていましたし、もう一つ見たNHKの「伝説のイタリアオペラ・ライブ」シリーズでは極々常識的なバレエだったので、油断していました。子供に見せるものではなかったです。侮れじ、マクヴィカー。

今回は我が家は右側のバルコニーボックスに陣取ったので、ラストの老紳士の天使は角度の関係上よく見えませんでした。あまり「救われた」感のない野たれ死にのような倒れ方で絶命したマルグリートは、果たして神に召されたのでしょうか?第2幕でもキリスト十字架像の脇腹から赤ワインを流したり、その像をあられもなくうつぶせに倒してみたり、相当罰当たりなアンチクライスト系の演出。一方で悪魔のメフィストフェレスは常に冷静沈着、剣で十字を切られても、大天使が現れても、弱ったり動じたりすることなく、ただし逃げ足だけは速くて確実(笑)。うーむ、現世の売れっ子マクヴィカーは、もしかしたら悪魔に魂を売った人かも。


グロテスクなバレエダンサーたち。ロイヤルバレエの人ではないでしょう。(こんな肉感的なダンサーたちはロイヤルでは見たことないので)


満場の歓声に応えるホロストフスキー。実際、素晴らしい歌唱でした。


さすがに初日はキャンセルしなくて良かった、ゲオルギュー。「こんな短い髪で、情けないわぁ〜」という仕草をしていました。


グリゴーロ君も大歓声。すっかり人気者の仲間入りですね。今回は、コヴェントガーデンによくぞ戻って来てくれた、ということだけで良しでしょう。


出演者を称える指揮者のピドさん。これだけの演奏をオケから引き出したのだから、なかなかの実力者です。

LSO/ゲルギエフ:チャイコフスキー国際コンクール優勝者コンサート2011/09/21 23:59


2011.09.21 Barbican Hall (London)
Valery Gergiev / London Symphony Orchestra
XIV International Tchaikovsky Competition Winners Concert
Sun-Young Seo (S-2), Narek Hakhnazaryan (Vc-3), Daniil Trifonov (P-4)
1. Tchaikovsky: Polonaise from' Eugene Onegin'
2. Tchaikovsky: Letter Scene from 'Eugene Onegin'
3. Tchaikovsky: Roccoco Variations
4. Tchaikovsky: Piano Concerto No. 1

チャイコフスキー国際コンクールは4年に1度開催される世界最高峰の音楽コンクールと言われていますが、近年は外国スポンサーの意向(カネ)と審査員との師弟関係(コネ)が入賞者の選出に大きく影響しているという批判がなされてきました。そこで第14回の今回はゲルギエフがコンクールの総裁に就任し、演奏者が師事する音楽教師を審査員から排除するなど、より公正で透明性の高い審査を実現しコンクールの権威を復活させるという意気込みのもと、6月に開催されました。その結果、ほぼ毎回日本人の優勝者を輩出していたこのコンクールが、今回は日本人の入賞者ゼロ(それどころか本選進出すらいない)という事態になったのは、何とも淋しいというか、ビターな思いがします。

LSOの今シーズンのプレオープニングでもあるこのコンサートは、コンクール優勝者による国外では最初のお披露目演奏会のはずだったように思うのですが、調べると「チャイコフスキー国際コンクール優勝者ガラ・コンサート」なるものが今月初旬すにで日本で行われていて、さすが日本におけるこのコンクールの集客力は、日本人が出なくても健在なんですね。

今日出演のソリストは、声楽女声、チェロ、ピアノ各部門の優勝者で、元々は声楽男声の優勝者(パク・ジョンミン)も名を連ねていたのですが、理由はわかりませんが後になってキャンセルになっていました。なお、ヴァイオリンは今回優勝者なしだったので最初から出演予定はなしでした。

声楽女声の優勝者、ソ・スニョン(と読むのでしょうか?)は27歳と相対的には年齢が高いです。プログラムの経歴を読むと、実際にどのくらいの実キャリアがあるのかはよくわかりませんが、すでにオペラ経験豊富で、今年からバーゼル劇場のアンサンブルになって活動の拠点を欧州に移しているようで、そのふくよかな容姿も相まってまさにベテランの貫禄を醸し出していました。声量が抜群にあり、ソプラノらしからぬ芯の太い声質は、全くオペラ向きです。表現力はちょっと一本調子だなと感じたのと、27歳にしてすでに貫禄のマダム然としたその見た目は役を選んでしまうだろうな、このタチアナ役は回って来ないんじゃ、と失礼ながら思ってしまいましたが、確かに良い声は持っているので、スイスでも存分に活躍してもらいたいです。


続いてチェロ優勝者、ナレク・アフナジャリャンはアルメニア出身の23歳。12歳からモスクワで勉強をしている、ロシアの教育システムの中で上がってきた人のようです。ひょろっとした長身と神経質そうであどけない顔から、いったいどんな演奏をするのか予測がつかなかったのですが、音がどこか枯れていて、老かいな演奏だったのが意外でした。ほとんど目を閉じて演奏に没頭し、目を開けたと思ったら指揮者よりもコンマスとのアイコンタクトが多く、何があっても動じることのない完成されたスタイルです。もちろん上手いのはめちゃめちゃ上手いですが、この若さで妙に枯れた感が強いのはちょっと問題かも。しかし聴衆のハートはがっちりつかんだようで、休憩時間の終わりごろ客席に出ると、瞬く間に囲まれてサイン攻めにあっておりました。


最後はピアノ部門の優勝、弱冠20歳のダニール・トリフォノフです。さらにあどけない顔のロシア美少年ですが、弾いているときの表情がかなり個性的。きつい猫背でピアノにかぶりつき、鋭い眼光はしかしピントが鍵盤よりももっと先にあっているような感じです。要は「いっちゃってる目」で、弾いてないときも一点見つめで別世界に飛んでいます。タフな箇所では見る見る顔が赤らみ、半泣き状態になるのが面白かったです。弾き終わったら瞬時にあどけない美少年顔に戻るのもなかなかキュート。もちろん技術的には申し分なく、アタックは力強くて常に正確。アンコールで弾いた「ラ・カンパネッラ」がまた凄すぎで、さすがこのコンクールの優勝者の上手さは半端じゃありません。それでいて、先のナレク君と比べると何というか音が暴れており、落ち着くまでにまだまだ伸びしろがある感じです。先行きの楽しみなピアニストだと思いました。


LSO/ゲルギエフ/フレイレ(p):劇場型チャイコフスキー2011/09/25 23:59

2011.09.25 Barbican Hall (London)
Valery Gergiev / London Symphony Orchestra
Nelson Freire (P-1)
1. Brahms: Piano Concerto No. 2
2. Tchaikovsky: Symphony No. 4

オーケストラのシーズンもいよいよ本格的に開幕です。LSOは昨年のシチェドリンと「展覧会の絵」という派手なオープニングプログラムと比べて、今年はずいぶん渋いと言うか、スタンダードにシンフォニックな取り合わせで攻めてきました。

1曲目は最初ピアノ協奏曲第1番とアナウンスされていたのですが、最近になって「ソリストの好みにより」2番に変更されていました。私はどちらもあまり聴かないし、正直どちらでもよかったのですが、1番は昨年ポリーニで聴いているので、この変更はウェルカムでした。しかし、フレイレを聴くのは初めてでしたが、何だか杓子定規の普通の演奏で、取り立ててひきつけるものがありませんでした。多分玄人好みの人なんでしょう、残念ながら私にはどこをポイントに耳をかたむければよいのか、よくわからず。一方オケはのっけから分厚い響きで地を這うようにホールを駆け巡り、重心の低い重めの演奏でした。重厚とはいえドイツ風という感じはしなくて、もっと乾いた北の大地のような響きです。第3楽章のチェロのソロは「これはチェロコンチェルトだっけ?」と思うほど、艶やかで官能的な一流ソリストの音でした。ここまでピアノはずっと食われっぱなしです。終楽章になると突如協奏曲らしい軽さが前面に出て、ようやくピアノに活力が宿ってきましたが、それまでの粘りが嘘のようにさらさらと終わってしまい、うーむ、こんなもんかな。そもそも、曲自体が尻すぼみという印象をぬぐえません。フレイレはラヴェルとか、もっと軽めの曲で聴いてみたいです。


フレイレ氏のすぐ右に見えるのがチェロのティム・ヒューさん。

メインのチャイ4は、昨シーズンから続いているゲルギー/LSOのチャイコフスキーシリーズ後半戦の初戦になります。前半戦の1〜3番を結局一つも聴けなかったので、さてゲルギーのチャイコフスキーはどんなもんかのう、と期待半ばで聴いたのですが、予想以上に面白い演奏でたいへん楽しめました。第1楽章はゆったりとしたテンポで始まり、マーラーのようにこまめにゆらし、操りながら造形を掘り出していきます。劇的ですがかなりゴツゴツして個性的なチャイコフスキー。第2楽章もさらっと流さず、木管の呼吸をあえて他とずらしてギクシャクとした進行にし、聞き手の心をその場に留めます。ちゃんと計算ずくで組み立てていましたね、これは。だいたい、指揮台の前に一応スコアは置いてありましたが、表紙が上になったままゲルギーは結局一度も触らず。

よく考えるとこの曲を前回4年前に聴いたのもLSOで、場所はブダペストのバルトークホール、指揮はコリン・デイヴィスでした。第3楽章を指揮せず弾かせるなどという洒落たマネをしていながら、全体的に「お前ら二日酔いか」と思うほどのヨレヨレ演奏に、ブダペストをなめとんかと当時は憤慨したものですが、本拠地のLSOはさすがにそんなことはなく、ゲルギーは第3楽章でもきっちり指揮をして精緻なアンサンブルを聴かせてくれました。終楽章はムラヴィンスキーばりに速い!思わず笑みがこぼれてきました。打楽器に注目すると、いつになく薄胴の大太鼓は重低音よりもくっきりしたインパクト重視でアクセントをきりっと引き締め、ティンパニはよく聴くとペダルワークを駆使して楽譜を逸脱した「旋律」を勝手に叩いています。フィルハーモニアのスミス氏だったら暴走に歯止めがかからないような気がしますが、そこはLSOのトーマス氏、お遊びはさりげない範囲にとどめ、第1楽章冒頭の再現が来た後は生真面目なスタイルに戻っていました。オケが一体となって有無を言わせず高速で畳み掛けるフィナーレは脱帽もので、LSOの超高い機能性はさすがに素晴らしかったです。それにしても、あの4年前のチャイ4はいったい何だったんだろうかなー。


最後に愚痴を。風邪の季節到来、あちこちで咳や鼻かみのうるさいこと。ブダペストに住んでたころから毎年冬になるとこぼしていますが、ヨーロッパ人てやつは本当にバカでジコチュー。どうしても咳がでるならハンカチを口に当てるという遠慮もなければ(だいたい持ち歩いてない人の多いことよ)、せめて音が大きくなるまで待ってさりげなく鼻をかむという知恵もない。そもそも、演奏中に鼻かむやつぁ始めからティッシュを鼻に詰めとけ!

フィルハーモニア管/マゼール:マーラー「アダージョ」と「大地の歌」2011/09/29 23:59


2011.09.29 Royal Festival Hall (London)
Lorin Maazel / The Philharmonia Orchestra
Alice Coote (Ms-2), Stefan Vinke (T-2)
1. Mahler: Adagio from Symphony No. 10
2. Mahler: Das Lied von der Erde

久々の「マゼールのマーラー・チクルスを厳選して聴きに行く」シリーズは通算で第8弾になります。新シーズンになって、弦楽器の配置をヴィオラとチェロを入れ替えたものに変えてきました。お目当て(?)のフィオナ嬢、ケイティ嬢も揃ってステージに上がっていて、一安心。今日は2ndヴァイオリンと反対側の端のほうに座ったのでフィオナちゃんは遠くなったのですが、彼女の序列が3番目に下がったおかげでむしろ私の席からもよく見えるようになり、ラッキーでした。


ウォーミングアップに余念ないフィオナちゃん。顔はちょっとお疲れのような…。終始笑顔がありませんでした。

マゼール御大も相変わらずお元気そうで何よりです。今日は最初から譜面台が置いてありました。まず未完の第10番「アダージョ」ですが、おごそかな冒頭のヴィオラの後、ヴァイオリンに加わってくると何となく思い切りの悪そうなフレージングが散発してあれれと思いました。アンサンブルも微妙に怪しかったけど、音は徐々に求心力を帯びてきてスコアを進むにつれて起伏が大きく雄弁な合奏になっていきました。マゼール先生、的確にしてスタイリッシュな指揮ぶりは変わりなく、全然枯れてないのはさすが。奇をてらうことのない正攻法の「アダージョ」でしたが、これが終わりじゃないよとばかりに最後はぷつっとあっさり切ってまとめました。

メインの「大地の歌」は交響曲とは言っても中身はほとんど連作歌曲ですし、ティンパニ・打楽器の活躍もあまりないので(スミス氏もいつになくヒマそうで)、あまり得意な曲じゃありません。今日はまず、テナーのシュテファン・フィンケがダメでした。風邪でもひいて喉の調子が悪かったのかもしれませんが、真っ赤な顔で声を張り上げるだけのあまりにも単調な歌、しかも声が出ていません。第1楽章はちょっと耳を閉じたくなるレベルでした。第3、第5楽章は軽めの曲調もあってまだ聴いていられましたが、やっぱり声はでてないし、苦しい歌唱でした。一方のメゾソプラノのアリス・クートはぶれることなくしっかりとした歌唱で、声も出ていて良かったです。この曲に苦手意識があるためか、心を揺さぶられるというほどの歌には感じられませんでしたが、テナーが悪かった分引き立っていました。オケは冒頭から引き締まった演奏で、マゼールのコントロールは今日も冴えていました。ただテンポはだいぶゆっくりめで、全部で70分以上かかっていたでしょうか。10番ではなかった「老い」を少し感じてしまいました。もちろん、最初からそれを狙ったのかもしれません。終楽章の中間部は私には退屈で、いつもうとうと寝てしまうのですが、今日も途中で意識が飛んでいました。すいません。


深々と頭を下げるテナーのフィンケ。立ち上がると、フィオナちゃんは譜面台に隠れてしまいます…。

さて、マゼールのマーラーチクルスもあと8番、9番を残すのみ。どちらも週末なので急な仕事で涙をのむ可能性は低く、やっとゴールが見えてきました。