洗練の極み、クリスティアン・テツラフのソロ・リサイタル2024/10/07 23:59



2024.10.07 紀尾井ホール (東京)
Christian Tetzlaff (violin)
1. J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 二短調 BWV1004
2. J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ長調 BWV1005
3. クルターグ: 「サイン、ゲームとメッセージ」から
 J.S.B.へのオマージュ
 タマーシュ・ブルムの思い出
 無窮動
 カレンツァ・ジグ
 悲しみ
 半音階の論争
4. バルトーク: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Sz.117

元々は翌々日の読響のチケットを先に買っていたのですが、ソロリサイタルもやるに違いないと探したところ、チケットぴあのサイトで見つけました。紀尾井ホール主催公演ではなかったので販売はぴあ、イープラス等のチケット専門サイトのみ。サイトそれぞれで手配できる席が違うのが面倒くさいうえに、慣れないので決済のタイミングがわかりにくく、結局意図とは違う席を買ってしまったのですがそれはさておき。

テツラフのソロは、2012年にロンドンのウィグモアホールで聴いて以来の2回目です。そのときはバッハのソナタ&パルティータの2番、3番というちょっとヘビーなオール・バッハ・プログラムだったので、今日の前半は前回との比較というか、どのくらい印象が変わるのだろうかというのが観賞ポイントです。

昨年同様、近年のスタイルである殉教者のような風貌で登場したテツラフ。この人の演奏スタイルは以前からずっと変わらず、独特の間合いで、まるで息をするかのように自然に音を奏でます。「奏でる」という人為的な行為の表現よりも、「溢れ出る」と言った方が適切かもしれません。前回ソロで聴いたのは12年も前ですが、そのときの細部はともかく感動はしっかり記憶に残っており、備忘録で書き残したことも頼りにしつつ書き連ねると、パルティータ第2番のクライマックス「シャコンヌ」は、以前の一大叙事詩のような劇的表現から生々しさが消え、浄化された響きになっていたのが意外でした。当たり前ですが12年前と全く同じことはやっておらず、枯れた味わいの一歩手前くらい、絶妙な程度で熱量を残しながらも余計なものを削ぎ落としたところに、キャリアを重ねた進化を見ました。

休憩後の後半は、クルターグとバルトークの近現代ハンガリープログラム。「サイン、ゲームとメッセージ」は、YouTubeには多数動画が上がっていて、レコーディングも複数あるわりには、調べても全容がよくわからない謎の曲で、50年以上に渡って継ぎ足されてきた私的な小曲集のようなのですが、楽器もヴァイオリンだったりヴィオラだったり、曲によっては歌が入っていたり、管楽器の合奏だったりと、つかみどころがありません。今日の演奏はソロヴァイオリン・バージョンの全29曲からバッハへのオマージュ曲を含む6曲の抜粋になっており、1、2分の短い曲ばかりなのであっという間に終わりました。馴染みのない曲なので演奏解釈まで論評できないですが、印象としては、先ほどのバッハがゼロ点から表現を足していくような音楽作りだったのに対し、こちらはゼロ点を中心に時にはマイナスに引き、より鋭く、振れ幅の広い表現に少しギアを切り替えていた感じでしょうか。うまく言えませんが。

最後のバルトークの無伴奏ソナタは、完成品としては最後の作品になる晩年の傑作で、レコーディングも多数ある現代の定番曲ではありますが、全曲通して生で聴くのは初めてです。部分的には、12年前のロンドン響演奏会(ブーレーズが体調不良でキャンセルし、エトヴェシュが代役)でソリストだった他ならぬテツラフが、アンコールで第3曲「メロディア」を弾いたのを聴いていますが、この時の演奏が凄まじく良かった(と、備忘録を読んで思い出した次第)。はたして本日のバルトーク全曲も、記憶に違わぬ緻密で繊細な表現に加え、やはりここでも徹底的に洗練を追求した贅肉のない演奏。それでいて冷たかったり枯れた印象にならないのは、ずっとトッププレイヤーで走ってきた円熟のなせる技ではないかと。ソロコンサートに挑むときのテツラフは、もちろん曲ごとの解釈と表現はあれど、バッハでもバルトークでも、その個性的でナチュラルな息づかいをとことん研ぎ澄ました、まさにテツラフだけの世界を体現してくれるのが素晴らしいです。アンコールは、今日演奏しなかったバッハのソナタ第2番から「アンダンテ」。最後にオヤスミを囁くような短いフレーズを弾いて、お開き。

テツラフはいつ聴いても安定して最高峰の凄みを体感させてくれる、相変わらず別次元のアーティストでした。文句のない高品質のコンサートでしたが、小さいホールにも関わらずけっこう空席が目立ちました。翌々日の読響のほうはサントリーホールが完売御礼だったので、運営の不手際ではないでしょうか。チケットサイトも、もっとやる気を出さんかい。

アプサラス第10回演奏会:50年後も演奏され続ける曲2022/12/19 23:59

2022.12.19 東京文化会館小ホール (東京)
アプサラス第10回演奏会〜第2回「松村賞」受賞作品、会員作品と松村禎三作品
尾池亜美 (violin-5, 8, viola-5), 石上真由子 (violin-4, 7), 甲斐史子 (viola-1, 2, 6)
山澤慧 (cello-2, 4, 7), 夏秋裕一 (cello-3)
多久潤一朗 (flute-1, 3, 6, 8), Alvaro Zegers (clarinet/bass-clarinet-5)
飯野明日香 (piano-3, 5, 8), 田中翔一朗 (piano-1, 4, 7)
高野麗音 (harp-6), 會田瑞樹 (vibraphone-2)
高橋裕 (指揮-5)
1. 谷地村博人: ミューゼス第1番「月の道」~3人の奏者のために~〔第2回「松村賞」受賞作品・初演〕
2. 福丸光詩: フィグレスⅡ~ヴィブラフォン、ヴィオラ、チェロのために~〔第2回「松村賞」受賞作品・初演〕
3. 甲田潤: フルート、チェロ、ピアノのための《ラプソディ》〔初演〕
4. 中田恒夫: Whirlpools〔初演〕
5. 高橋裕: 「玄象」クラリネット、バスクラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、ピアノのための三重奏曲〔初演〕
6. 若林千春: 「木・林・森…鼎響」~フルート、ヴィオラとハープのために~〔改訂初演〕
7. 阿部亮太郎: この世の風 第5番〔初演〕
8. 松村禎三: アプサラスの庭〔1971〕

「アプサラス」は作曲家松村禎三氏の死後、その芸術作品の保存・普及と、新たな創作活動支援を目的として、弟子、遺族を中心に設立された有志の会です。アプサラス演奏会を聴きに行くのは2008年の第1回以来、12年ぶり。アプサラスでは生誕90年を記念して2019年に「松村賞」を創設し、今日はその第2回の受賞作品の表彰式と披露目という趣旨でした。あくまでアプサラスの場で披露できる規模の作品ということで、第1回は弦楽四重奏曲、第2回は三重奏曲(楽器はフルート、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノ、ハープ、ヴィブラフォンに限定)の15分以内の小品という縛りがありました。

というわけで本日の演目は三重奏の曲ばかり、もちろん全て「日本の現代音楽」で、8曲のうち7曲が初演または改訂初演という、なかなか刺激的な内容。ゲンダイオンガクをこれだけ連続して聴くのも久しぶりなので、ちょっと疲れました。加えて、今日が初演の曲など素人にはとても作曲も演奏も論評できるものではありませんが、備忘録として一言ずつ印象を書き留めます。

1曲目はフルート、ヴァイオリン、ピアノの三重奏で、松村賞受賞作にふさわしい、ドビュッシーのような情緒を感じる美曲。

2曲目は、本日の演奏者の中で唯一名前を知っていた會田瑞樹さん(以前NHK BSのクラシック倶楽部に出ていた)のヴィブラフォンをフィーチャーした面白い曲。片手に複数の撥を持ちノールックで的確に打つのはもはや驚くまでもなく、ブラシで擦ったり、素手で叩いたり、狙った音以外の音が鳴り放題の特殊奏法、楽譜にはいったいどう書いてあるんだろうか?

3曲目はがらっと雰囲気が変わり「和テイスト」で、一昔前の理屈っぽいゲンダイオンガク風。

4曲目も不協和音たっぷりの現代音楽ながら、構成はクラシカル。ヴァイオリン、チェロ、ピアノの編成も手堅く、しっかり作りました感が高い重めの曲。ヴァイオリンの石上真由子さんは目元がキリッとした美形で、京都府立医大出身という異色の経歴とか。

5曲目を作曲した高橋裕さんは、今日の中では(松村禎三氏を除き)唯一、過去に楽曲(シンフォニア・リトゥルジカ)を生で聴いたことがあります。京都出身で、禎三さんのお弟子さんですね。曲もオマージュを感じる、ゆったりとした流れの中にエネルギーが徐々に蓄積され、爆発して、また引いていくという構成。ヴァイオリンとヴィオラ、クラリネットとバスクラをそれぞれ持ち替えるという、かなり自由な発想の三重奏曲で、初演だし、本日の趣旨に無理やり合わせようとしたのかもしれません。なおこの曲だけ、三重奏にもかかわらず作曲家自身が指揮者として立っていましたが、ずっと4拍子をゆっくり振っていただけなので、本当に必要だったのかな、とは思いました。もちろん、初演だということを考えれば、奏者としては作者自身が指示を出してくれるのは非常に助かるでしょうが。

ここで休憩。意外と席の入りは良かったのですが、受賞者を見にきた方が多かったのか、休憩で多くの人が帰ってしまいました。

6曲目は再び「和テイスト」で、尺八と琵琶の邦楽曲のように呼吸で合わせる丁々発止が見ものでした。

7曲目は子守歌か夜想曲のような癒しの曲想から、途中の微分音的な展開が一つのアクセントになっていました。

最後の「アプサラスの庭」は、この会の名前の由来にもなった、1971年の作品。ここまで初演曲ばかり立て続けに聴いた最後にこの曲を聴くと、やはり別格。大胆な発想と円熟の構成力が聴き手を飽きさせません。奏者にも自然と熱が入り、特にツンデレなピアノが良かったです。この曲は演奏機会も多いし、録音もあり、50年以上経った今でもこうやって演奏され続けている。今日聴いた初演曲の中で、50年後も演奏されている曲が果たして何曲残るのか。全く論評も分析もできないですが、多産多死どころか少産多死の超絶厳しい世界であることは間違いないと、あらためて感じ入りました。


うちにあったCD「松村禎三の世界」2枚組。「アプサラスの庭」も収録されています。

東京春祭ディスカヴァリー・シリーズ:パウル・ヒンデミット2022/04/17 23:59



2022.04.17 飛行船シアター (旧上野学園石橋メモリアルホール) (東京)
東京春祭ディスカヴァリー・シリーズ vol.8: パウル・ヒンデミット
三又治彦, 猶井悠樹 (vn-1)
佐々木亮 (va-1, 2, 3)
小畠幸法 (vc-1)
冨平安希子 (soprano-4, 6)
小林啓倫 (baritone-4)
有吉亮治(piano-2, 3, 5), 冨平恭平 (piano-4, 6)
中村仁 (解説)
1. ヒンデミット: 朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された《さまよえるオランダ人》序曲
2. ヒンデミット: ヴィオラ・ソナタ op.11-4
3. ヒンデミット: 瞑想曲
4. ヒンデミット: 歌劇《画家マティス》より 第6場1景 
5. ヒンデミット: 組曲《1922年》 op.26 より 第1曲 行進曲、第3曲 夜曲
6. ヒンデミット: 歌曲集《マリアの生涯》 op.27 より 第7曲 キリストの降誕、第9曲 カナの婚宴

ふと思い立って聴きに出かけました。2020年、2021年は多くの公演が中止になってしまったので、東京春祭に出かけるのは実に3年ぶり。とは言ってもメインの文化会館ではなく、初めて訪れる旧上野学園石橋メモリアルホール。座席数500ほどの規模で、立派なパイプオルガンを有するチャペルのような品格が誇りの小コンサートホールだったそうですが、昨年ゲーム会社のブシロードに売却され、今年から多目的の「飛行船シアター」としてリニューアルオープンしたばかりです。オルガンは撤去され、無機質の白壁に演劇用の天井の照明、かつてのファンの落胆が目に浮かぶようです。ただ、以前のを聴いてないので何ともわからないのですが、改装後のホールでも通りがよい十分立派な音響でした。

「東京春祭ディスカヴァリー・シリーズ」は毎年一人の作曲家にフォーカスし、N響メンバーを中心に、あまり演奏機会のない曲なども取り上げて生涯と作風を深堀りしていく企画ですが、今年のお題はパウル・ヒンデミット。著名ながらも普段からほとんど聴くことがない作曲家で、過去の演奏会聴講記録を辿ると2010年プロムスで交響曲「画家マティス」を1回聴いただけでした。

1曲目は「やたらと長く、ふざけたタイトルのクラシック曲」としてクイズネタにもなったりする弦楽四重奏曲。タイトルから分かる通りワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲をモチーフにしたパロディ音楽ですが、IMSLPにスコアがあったので見てみると、スコアはけっこう真面目に書き込まれてます。これを如何に調子外れに、下手くそに聴かせるかが逆にすごく難しいのではないかと。今日はこの曲を実演で聴きたいがために来たようなものです。

追加で配られたチラシを読むと、「そのまま演奏しても良かったのですが」「音楽の特徴と登場人物の心境をマッチングさせ」「オペラのように音楽を創り上げました」とのこと。開演後、いったん舞台が暗転し、スウェット寝衣姿のチェロが登場すると暗がりの中で神経質そうに練習を始めますが、すぐに煮詰まって、横に置いてあった枕とタオルケットで寝てしまいます。朝になりヴィオラがパリッと正装で登場するもチェロは起きず、するとヴァイオリンの2人がはだけた服装にネクタイハチマキの徹飲み明けの出立ちで肩を組んでわしゃわしゃと登場。おもむろに冒頭のトレモロを弾き出すとチェロが飛び起きて合わせていきます。演出と呼べるものはここまでで、後は何とか「二流」の味を出そうとわざとらしい振りで調子外れっぽく弾いていきますが、始まってしまうとオケ奏者のサガというか、真面目さが隠しきれない。ヴァイオリンの2人など終始ボウイングが揃っていて、音もしっかりしているし、上手いのを隠すのが下手。あえて演出を入れたかった理由がよくわかりました。しかし、なかなか珍しく面白いものが聴けました。

前半はこの後ヴィオラとピアノのデュオ曲が2曲続いて、休憩。前半と後半で1回ずつヒンデミットの研究家、中村仁氏によるスライドを使った解説がありました。あらためて年表で見てみると、2つの大戦を直に経験し、最後は(ユダヤ人ではなかったけれども)ナチス政権から逃れて亡命し、戦争に翻弄された人生だったことがわかります。同じ1890年代生まれの著名作曲家はプロコフィエフ、オネゲル、オルフに加えてグローフェ、ガーシュウィン、コルンゴルドなどがいて、その中に並べるとヒンデミットは即物主義の前衛的イメージにも見えますが、時代はすでにバルトーク、ストラヴィンスキー、ヴァレーズ、ウェーベルン、ベルクが登場した後なので、立ち位置がちょっと中途半端に見られてしまうのは仕方がないかと思います(作曲家本人は「立ち位置」など全く気にしてないでしょうけど)。休憩後の初めて聴く歌曲とピアノ曲に接してみても、その印象は変わりませんでした。尖った曲が聴きたい気分だとしても、あえて「画家マティス」を選ぶ理由がない。そうかそれで自分は今までヒンデミットに触れる機会が少なかったんだと思い当たった次第です。

コロナ以降、だいぶ演奏会から遠ざかっていますが、今年もぜひ行きたいとそそられるプログラムの演奏会が少なく、寂しい限りです。演奏者で選んでも来日キャンセルリスクがまだ大きい以上、チケットを買うのに躊躇します。

ラベック姉妹+カラカン:4本腕の凄腕ピアニスト?2013/02/17 17:59


2013.02.17 Queen Elizabeth Hall (London)
Katia & Marielle Labèque (pianos)
Kalakan Trio (percussion-4)
1. Debussy: "Nuages" and "Fêtes" from Nocturnes (transc. Ravel for piano duo)
2. Ravel: Rapsodie espagnole (for piano duo)
3. Ravel: Ma mère l'oye (Mother Goose), suite for piano duet
4. Ravel: Boléro (arr. for piano duo & percussion trio)

一昨年のOAEで初めて生を見たラベック姉妹。そのときはバロックピアノ(フォルテピアノ)でしたが、今回は普通のモダンピアノデュオを最前列かぶりつきで観賞です。お姉さんのカティアは赤、妹のマリエルは黒というコントラストの衣装で登場(ですよね?この姉妹は双子のようによく似ているので見分けにくいです)。姉妹デュオでの活動に年季が入っているので、さすがに息がぴったり。音も同質でお互い溶け合っており、「4本の腕を持つ凄腕ピアニスト」とでも表現できそうです。その分、姉妹のキャラ分けと弾き方はけっこう対照的。職人肌系きっちりピアニストのマリエルに対して、カティアは全くの芸術爆発系。激しいアクションに、きついフレーズで自然とこぼれる野獣のうなり声。最後の音を手のひらでふわっと包み込んで温めるような仕草(もちろん鍵盤から手を離した後のそんな動作が音に影響するわけはなく、完全に気持ちの問題ですが)など、エモーショナルな弾き方がビジュアル的にも面白かったです。

前半は、先週オケで聴いたばかりの「スペイン狂詩曲」が圧巻でした。ラヴェル自身のトランスクリプションかどうかは確認できていないですが、骨組みだけみたいなこのピアノ版を聴くと、この巨大なオーケストレーションの構造と仕組みが見えて(と言えるまでの素養はないですが、少なくとも感じ取れて)きました。後半の「マ・メール・ロワ」は連弾なので、横並びで身を寄せ合ってあまり動けないせいか、多少大人しめの演奏でした。最後の「ボレロ」はバスクの民族打楽器トリオKalakanと共演。ボレロをただピアノだけで延々とやってもつまらない(やるほうも聴くほうも多分苦痛)ので打楽器で色付けするという趣向だと思いますが、ピアノはすっかり脇役でした。ただし正直な感想を言わせてもらえれば、このボレロに限っては打楽器も退屈でしたけど。あと3、4人笛系と弦系の民族楽器が加わればもっと多彩で面白くなったんじゃないかな。アンコールはKalakanのみで、拍子木の曲とアカペラ2曲を披露しました。その間ラベック姉妹は舞台脇にべたっと座りリラックスして鑑賞。拍子木は曲芸みたいなもんでしたが、アカペラは結構上手でした。


ボレロの小太鼓はこんなんでした。


大太鼓と、何だかよくわからない木琴のような拍子木のような打楽器。



五嶋みどり/オズガー・アイディン:ベートーヴェン、ヴェーベルン、クラム2012/11/25 23:59

2012.11.25 Wigmore Hall (London)
Midori (violin) / Özgür Aydin (piano)
1. Beethoven: Violin Sonata No. 2 in A Op. 12-2
2. Webern: Four Pieces Op. 7
3. Beethoven: Violin Sonata No. 6 in A Op. 30-1
4. George Crumb: Four Nocturnes (Night Music II)
5. Beethoven: Violin Sonata No. 9 in A Op. 47 ‘Kreutzer’

この日はビシュコフ/LSOでマーラー1番があったのですが、後からこの五嶋みどりの演奏会に気付き、迷った挙句LSOはリターンしてしまいました。

2年ぶりの五嶋みどりさんですが、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタという、普段の私からは最も縁遠い世界の曲目なので、スマートなレビューなど元々できるはずもなく、それは最初にお断りしておくとして、やっぱりこの人の上手さは群を抜いてます。最初のソナタ第2番は最初から最後まで音が澄み切っており、豊かな表現力に細かい語り口は寸分の穴もなくスムースで、トップクラスのアスリートが全身を駆使して記録を出すような、全てにおいて美しい演奏でした。過去に聴いたのはコンチェルトばかりでしたが、目を閉じて修行僧のような寡黙さで演奏に没入する姿が印象に残っていたので、ここまで内田光子ばりに表情豊かな人だったとは、全く意外でした。

続くヴェーベルンは初期の小品(と言っても彼の作曲はほとんどが小品ですが)で、音列技法に取り組む前の無調音楽です。一見、沈黙をわずかな音で紡いでいくようなローカロリーな曲ですが、音符の背後にあるとてつもない緊張感が心を揺り動かします。特に2曲目は突如怨念を爆発させたような激しい演奏で、ヴェーベルンとは思えないくらい、人の血の通った音楽でした。

休憩後、マイクを持ったおじさんが出てきたので何事かと思えば、予定されていたクルターグ「3つの断章(Tre pezzi)」の代わりに誰それの「ノクターン」を演奏します、とのこと。ピアニストが持って出てきた楽譜の表紙をオペラグラスで見て、作曲者はジョージ・クラムと確認。どのみち初めて聴く曲ですが、クルターグはハンガリー人作曲家としてもちろん名前はよく知っていますが、クラムは名前すら初めて聞きました。後でみどりさんの公式ページを見ると、この秋のアイディンとのツアーではどの日も同じ演目で、クルターグではなくクラムがすでにエントリーされていましたので、ならば逆にウィグモアホールが何故ギリギリまで曲目変更のアナウンスをせず、無料プログラムも誤った情報のまま刷ってしまったのか不思議です。それはともかく、ヴェーベルンよりもさらに繊細な弱音のヴァイオリンの後ろで、ピアノの弦を直接指で弾いたり引っかいたりする内部奏法を多用した、いわゆるゲンダイオンガクでありました。後で調べたところ、けっこういろんな人がレパートリーにしている著名曲のようでしたが、1回聴いただけで飲み込める曲ではありませんわ。ピアノに目を取られているうちに、ヴァイオリンが何をやっていたかあまり印象に残らなかったのが残念なのと、曲が静かな分、客の無遠慮な咳やコートをガサゴソする音が気になってしょうがなかったです。

最後の「クロイツェル・ソナタ」はもちろん超有名曲のはずですが、聴いた記憶がありませんでした。前半のソナタとはアプローチが変わって、美しく整えるよりももっと情念を前面に押し出した、雄雄しいとも言える激しい演奏で、みどりさんの幅広い芸風に脱帽です。アンコールは「亜麻色の髪の乙女」とクライスラー(曲名聞き取れず)の2曲もサービスしてくれました。プログラムがもうちょっと自分好み寄りの選曲ならなお良かったですが、ともあれLSOをキャンセルして聴きにきた甲斐は十分ありました。


ホールの写真がないので、代わりにボンドストリートのイルミネーションを。

クリスティアン・テツラフ(vn):バッハ「シャコンヌ」は、ひとり地球交響楽2012/09/19 23:59


2012.09.19 Wigmore Hall (London)
Christian Tetzlaff (Vn)
1. Sonata No. 2 in A minor for solo violin BWV1003
2. Partita No. 2 in D minor for solo violin BWV1004
3. Sonata No. 3 in C major for solo violin BWV1005
4. Partita No. 3 in E major for solo violin BWV1006

プロムスも終わり、2012/2013シーズンの幕開けです。今年の初っ端は自分でも意外なことに、昨年に引き続き室内楽。ロンドンに来てからすっかりお気に入り、クリスティアン・テツラフのソロヴァイオリン演奏会です。普段はめったに聴かないバッハです。しかも今日は、ロンドン在住3年を超えて、何と初のウィグモアホール。評判通り、大きさ、音響、客層、アクセス、どれを取っても小編成の楽隊には願ってもないホールでしょう。

今まで聴いた、コンチェルトを弾いているときのテツラフの印象は、技術は穴なく完璧で、呼吸をするかのように自然な(わざとらしさが一切ない)ヴァイオリンを弾く人だったのですが、ピアノ伴奏すらないソロのリサイタルを至近距離で聴くと、乗ってくれば意外と音は荒いし、音程も時々ビミョーに揺らぐ、人間らしい奏者なのだなあというのが新鮮な発見でした。元々この人は、もちろんめちゃめちゃ上手いので毎回舌を巻くのですが、決して技術の完璧さで勝負はしていません。全身を上下左右に揺らしつつ、雄弁に語るヴァイオリンの説得力と表現力は群を抜いているし、しかもたいへんユニークです。

前半の最後、パルティータ第2番終曲の有名な「シャコンヌ」は、とりわけ劇的としか言いようがない一大叙事詩。暗く悲痛な叫びで始まり、激しくひとしきり燃え上がった後は、焼け野原からオーラが立ち上り、人間の営みがまた復興して行く様が目の前にまざまざと広がりました。言うなれば、ひとり地球交響楽(ガイア・シンフォニー)。冗談抜きで、是非テツラフにはこの希望を与える音楽を震災被災地の人に生で聴かせてあげて欲しい、と思いました。

後半は明るく軽めに、卓越した技術を惜しげもなく披露し、速いパッセージはとことん速く、肩の力を抜いた演奏。ソナタ第3番のフーガなんかも、分身の術のように見事に弾ける人は他にもいるはずですが、テツラフは曲芸に走らず、男の筋を通すかのように「一奏者」にこだわった演奏。休憩はさんで2時間、こんだけ弾いたらさすがのテツラフでも披露困憊で、アンコール無しでした。



おまけ、Selfridgesデパートの入り口にそびえ立つ草間彌生。


LSO室内楽アンサンブル/ゲルギエフ:狐/兵士の物語2012/05/13 23:59

2012.05.13 Barbican Hall (London)
Valery Gergiev / LSO Chamber Ensemble
Alexander Timchenko (T-1), Dmitry Voropaev (T-1)
Andrey Serov (Bs-1), Ilya Bannik (Bs-1)
Simon Callow (Narrator-2)
1. Stravinsky: Renard
2. Stravinsky: The Soldier’s Tale

3日連続、今週4回目のバービカン。今日はLSOの室内楽アンサンブルで曲目も渋かったためか、サークル、バルコニーは閉鎖されていましたが、それでもストールにも空席が目立ちました。

今日の驚きは、すでにROHの人気者となったヴィットリオ・グリゴーロ君が聴きに来ていたことです。LSOとあまり接点がなさそうなので、意外でした。派手な顔立ちの女性、老紳士と連れ立ってE列に座っていましたが、どうも「狐」に出演した歌手の一人がお友達のご様子。休憩後には消えていたので先に帰ったのかと思いきや、終演後、お連れの人と一緒に駐車場で車に乗り込むところを見たので、別室でお友達と盛り上がっていたんでしょうか。

1曲目の「狐」は男声4人とツィンバロンを含む15人の小管弦楽による、一種のバレエ作品。15分くらいの短い曲です。今日は演奏会形式なので踊りは無し。ストーリーは、鶏が狐に襲われて食べられそうになるが、猫と山羊に助けを求めて狐を撃退する、という単純な話です。男声4人は各々登場キャラクターの鶏、狐、猫、山羊に割り当てられており、そういう先入観で見ると、歌手の皆さんの風貌がまさに各々のキャラクターそっくりに見えてきて、可笑しかったです。ほとんど始めて聴いたのですが(それがこの演奏会に来た理由でもあります)、聴きやすくて楽しい曲です。是非バレエでも見てみたいです。


左から鶏、狐、猫、山羊です。特に右端のバンニクは、まさに山羊(笑)。

メインは「兵士の物語」。ストラヴィンスキーの代表作でかなり有名かと思いますが、こちらも実は聴いたことがありませんでした。7名の奏者とナレーターによる、朗読・演劇・バレエを融合した舞台作品、とのことで、様式的にはごった煮ながらも、わかりやすくて極めて魅力的な音楽です。ブレーク無しで1時間の長丁場を全く飽きることなく楽しめました。ストーリーは、兵役から故郷に帰る途中のヴァイオリン弾きジョゼフが悪魔に騙されて楽器と本を交換し、道草を食っている間に故郷の婚約者は別の男と結婚、当てもなく旅に出たジョゼフは病床のお姫様を悪魔から取り返したヴァイオリンで癒し、手に手を取って城から出て行くが、国境を越えたとたんに悪魔の手に落ち地獄行き、というお話(朗読は早くて途中着いていけなかったので、あらすじは後で調べました)。サイモン・キャロウ(映画「アマデウス」でシカネーダー役の人)の熱演もさることながら、LSOのトップ奏者が集った七重奏は、まさに粒が際立った至高のアンサンブル。ヴァイオリンのシモヴィッチはいつものごとく音楽に全く身を委ね、本当に楽しそうに弾いているのが、見ているこちらも幸せな気分になってきます。トランペットのコッブは対照的にクールに澄ました顔で、難しいフレーズも一点のキズなく吹きこなしてました。めちゃめちゃ贅沢な「兵士の物語」だったんではないでしょうか。


ゲルギーさん、いつものように爪楊枝を掴んで繊細なんだか無骨なんだかよくわからない指揮をしていました。今日はさすがに最後の拍手の際も、自分は脇に立って終始奏者を称えていました。


トランペットのフィリップ・コッブを称えるゲルギーさん。


ナレーターのサイモン・キャロウ。味わいの深いおじさんです。

プレヴィン(p)/ムター(vn)/ミュラー=ショット(vc):三世代競演?2012/02/20 23:59


2012.02.20 Barbican Hall (London)
Anne-Sophie Mutter (Vn), André Previn (P), Daniel Müller-Schott (Vc)
1. Mozart: Piano Trio No. 2 in B-flat major
2. André Previn: Trio No. 1
3. Mendelssohn: Piano Trio No. 1 in D minor

めったに行かない室内楽です。これはLSOのシーズン枠の一つで、前夜のLSOにも登場したプレヴィン、ムターの元夫婦に、弟子のミュラー=ショットを加えてのピアノトリオ。一度はムターをかぶりつきで見る(聴く)、というのがチケット買った動機のほぼ全てです。ムターとミュラー=ショットはちょうど1年前のLPOで二重協奏曲を聴いていますし、ミュラー=ショットはその後プラハでも聴きました。プレヴィンは、20年前に初めてウィーンを旅行した際、楽友協会でウィーンフィルを指揮したのを当日券で聴いて以来ですが、そのときは舞台後方打楽器の真後ろの席だったので指揮者が全く見えず、せっかくの初ウィーンフィルも打楽器の生音ばかりが聴こえてきたという、今となっては微笑ましい記憶です。一昨年のLSOでアルプス交響曲を振る演奏会を楽しみにしていたのですが、体調が原因でキャンセルになり、そのときは曲目も変更になったのでチケットをリターンしました。

ピアノと椅子が3つだけだと、バービカンの舞台もずいぶんと広々と感じられます。譜めくりの女性に支えられつつ登場したプレヴィンは、もう歩くのがやっとこさのヨボヨボ老人。数年前にN響を指揮した映像をテレビで見たとき、ずいぶんと老け込んだんだ姿に驚きましたが、実物の衰え方はそれ以上でした。楽屋口からステージに上る階段は珍しく衝立でカバーされていましたが、これはプレヴィンが長く歩かなくても済むようにという配慮だったのかも。方やムターは上下黒づくめの肩開きドレスに、結び目の大きいショッキングピンクの腰帯を合わせ、よく見るとヒールの靴底も同じショッキングピンク色だったのがオシャレでした。ハンサムボーイ、ダニエル君は普通にグレーのスーツ姿。

定位置につくと、せーのと呼吸を合わせるでもなく早速ピアノが始まりました。さすがは老いても名ピアニスト、先ほどのヨボヨボぶりがウソのようにサラサラと弾くのですが、よく聴くとやっぱりピアノは相当危なっかしい。音は外すは、止まりそうになるは、それでいて音楽はちゃんと途切れず進行しているのだからたいしたもんです。他の二人はピアノに何とかついて行き、包み込むようサポートするのに徹していました。間近で見るムターは、みけんのしわが半端じゃなく凄い。ほとんどアブドーラ・ザ・ブッチャーかブルーザー・ブロディの世界でした。彼女はいつもしかめっ面で演奏する癖があるみたいなので、もう職業病ですね。私は楽しそうに、幸せそうに演奏する人のほうが好みですが。また、スレンダーな身体ながらも肩の筋肉(三角筋)だけ異形に盛り上がっていたのにはプロの宿命を感じました。ただし演奏のほうはというと、音程が手探りだったり、音がかすれたりと、あまり調子が上がっていない様子。こんなもんだったかなあ、ムターも今や昔の名前だけで売ってる人なのかと、ちょっとがっかりしました。一方のダニエル君が対照的に脂の乗り切った艶やかな音で全体をしっかり支えていたので、いっそう差が引き立ちました。

2曲目のプレヴィン作曲ピアノトリオは2009年の新作で、ジャズっぽい曲を期待していたら全然そういうテイストの曲ではなく、「現代音楽」というほどモダンでもないですが、不協和音満載の硬質で暗い曲調だったので意表を突かれました。ストラヴィンスキーの室内楽作品みたいな感じです。1回聴いたくらいではちょっとよくわからなかったので、パス。

休憩後のメンデルスゾーンはムターも調子を取り戻したようで、ダニエル君とタメを張る力強い演奏。馴染みのない曲なので細かいところはよくわかりませんが、非常にしなやかで粘りのある彫りの深いヴァイオリンで、なるほどこの卓越した表現力で長年第一線を張ってきた人なのだなと、ようやく本来のムターを聴けた気がしました。プレヴィンのピアノは相変わらずですが、足取りのおぼつかなさとは段違いの推進力があり、あくまでサラサラと彼岸のピアノを弾いていました。アンサンブル命の正統派ピアノトリオとは全く言いがたいでしょうが、何だか良いものを聴かせてもらったと満足して帰路につけました。娘も妻も、メインはまあまあ楽しんでいたようなので、良かったです。演奏が終れば、まるで年老いた祖父をいたわるかのようにプレヴィンをケアしていたムター。とてもこの人達が数年前まで夫婦だったとは信じられません。ダニエル君は童顔だし、祖父・母・息子の三世代競演と言われても信じてしまいそうですね。


タカーチ・カルテット:バルトーク弦楽四重奏曲コンプリート2011/10/19 23:59


2011.10.18 Queen Elizabeth Hall (London)
Takács Quartet: The Complete Bartók String Quartets I
Edward Dusinberre (1st Vn), Károly Schranz (2nd Vn)
Geraldine Walther (Va), András Fejér (Vc)
1. Bartók: String Quartet No. 1
2. Bartók: String Quartet No. 3
3. Bartók: String Quartet No. 5

2011.10.19 Queen Elizabeth Hall (London)
Takács Quartet: The Complete Bartók String Quartets II
1. Bartók: String Quartet No. 2
2. Bartók: String Quartet No. 4
3. Bartók: String Quartet No. 6

マーラーシリーズが一段落し、しばらくバルトーク続きになります。私としては珍しく、弦楽四重奏の演奏会。他ならぬタカーチSQがバルトークの全曲演奏会をやるというせっかくの機会なので、ぬかりなく全部聴きに行くことにしました。

断るまでもなく弦四は全く私の守備範囲外なのですが、にわか座学でちょいと楽団の歴史をば。タカーチSQは1975年にブダペストで結成、メンバーは当時全員がリスト音楽院の学生でした。楽団名は第1ヴァイオリンのタカーチ=ナジ・ガーボルが由来ですが、そのタカーチさんは1993年に脱退、英国人のエドワード・ドゥシンベルが代わりに加入します。翌94年にはヴィオラのオルマイ・ガーボルが健康上の理由(95年死去)でやはり英国人のロジャー・タッピングと交代、英洪半々の楽団となってからメジャーレーベルへの録音が増えていきます(それ以前もハンガリーのHungarotonレーベルへ多数の録音がありますが)。特にバルトークとベートーヴェンの全集は高い評価を得て、世界トップクラスのカルテットとして一躍名声を馳せました。2005年に引退したタッピングと入れ代わったのは、サンフランシスコ響のヴィオラ主席を30年勤めていた米国人女性奏者、ジェラルディン・ウォルサー。さらにインターナショナルになったタカーチSQは活動拠点を米国コロラドに移し、タカーチさんはすでにおらず、ハンガリー人率は半分になり、ハンガリーで演奏することすらめったになくなったので、もはやハンガリーの団体とは本人たちも思ってないかもしれません。

バルトークの弦楽四重奏曲は全部で6曲あり、初日は奇数番号、二日目は偶数番号を、各々番号の順に演奏していきます。DECCA盤(2枚組)も同じ分け方ですね。余談ですが、オリジナルメンバーによるHungarotonの旧盤は3枚組で、ブダペストのCD屋ではかつてよく見かけました。私もコンパクトなDECCA盤のほうをつい買ってしまったのですが、今や稀少価値となった旧盤のほうを買っておけばよかったと少し後悔しています。

初日、登場したメンバーを見て、第2ヴァイオリンのシュランツ・カーロイとチェロのフェイェール・アンドラーシの二人がいかにも「ハンガリー人顔」なので、思わずニンマリ。4人並べてどれがハンガリー人かと聞かれたら、予備知識なしでも楽勝でわかるでしょう。一方のリーダーのドゥシンベルは長身ですがあまりイングリッシュ然としてなく、ちょっと国籍不明ぽい。むさい男どもに挟まれて紅一点のウォルサーは、こちらはいかにもアングロサクソンで、身のこなしがとっても女性らしいチャーミングな人でした。しかし、見た感じからはそう思わなかったのですが、一番新しいメンバーのウォルサーさんが実は一番年上だったんですね。

演奏が始まると、民族だの性別だのは全く関係なく、評判通り完成度の高過ぎるアンサンブルを聴かせてくれました。DECCA盤CDとはメンバーも変わっているので多少アプローチが違うかなと思う箇所もありましたが、女性が入ったからメロウになったとかカラーが変わったということはなさそうで、一貫してストイックでスポーティな演奏でした。皆さん身振りが大きいわりには熱気で上ずることなく、演奏は至ってクール。音色もリズムもバルトークだからといって無理な民謡テイストの味付けをすることなく、第5番のブルガリアン・リズムも極めて純化されたものでした。バルトークの弦四はさながら特殊奏法のデパートですが、オハコだけあって皆さんさすがに上手い!いちいちお手本のような完璧さで、舌を巻きました。

印象に残ったのは二日目の第4番。以前ブダペストでこの曲を聴いたミクロコスモスSQは、他ならぬタカーチ=ナジ・ガーボルがペレーニ・ミクローシュと結成した楽団ですが(言うなれば「元祖タカーチ」?)、一体のアンサンブルというよりは、やはりこの二人の突出したソロを楽しむという聴き方になってしまっていました。一方こちらの「本家タカーチ」は、誰が突出することなくハイレベルで横並びのメンバーが絶妙のバランスで完璧な演奏を聴かせ、そうでありながらもチェロのフェイェールは、普段は地味に弾いているのに見せ場にソロになるとちゃんとソリストの音に切り替えてメリハリを見せ、総合的には一枚も二枚も上手の演奏に感銘を受けました。さすがー。二日目は初日よりも多少高揚して熱くなったところも見られたのが良かったです。

普段はあまり聴かないバルトークの弦四をこうやって連続して聴くのは、エキサイティングな体験です。音楽はどれもやっぱりハードボイルド。バルトークが管弦楽を書く時のエンターテインメント性は影をひそめ、贅肉をそぎ落とした凝縮度の高い音楽になっています。二昔くらい前の所謂「頭痛のする現代音楽」のイメージそのもの、かもしれません。そうはいっても、第6番などでは凝縮度と聴き易さが同居する、ちょうどヴァイオリン協奏曲第2番のような「円熟」が感じられたのが新たな発見でした。


初日の写真。


二日目の写真。ウォルサーさんはさすがに女性なので衣装を変えていますが、他の男性陣は全く同じ服では…。

ジョン・ケージ・ナイト:4分33秒の不安と、0分00秒の納得2011/09/13 23:59


2011.09.13 Queen Elizabeth Hall (London)
John Cage Night
performed by Apartment House:
Nancy Ruffer (Fl), Andrew Sparling (Cl)
Gordon Mackay (Vn), Hilary Sturt (Vn)
Bridget Carey (Va), Anton Lukoszevieze (Vc)
Philip Thomas (P), Simon Limbrick (Perc)
1. Cage: 4' 33" (1952)
2. Cage: Radio Music for eight performers (1956)
3. Cage: Child of Tree for solo percussion (1975)
4. Cage: Concert for piano & orchestra/Fontana Mix (1957-58)
5. Cage: String Quartet in four parts (1949-50)
6. Cage: Music for eight (1984-87)
7. Cage: 0' 00" (4' 33" No. 2) (1962)

実はワタクシ、「4分33秒」のCDなるものを持っております。ハンガリーのアマディンダ・パーカッショングループのCDを買ったら他のケージの曲と一緒に入っていたのですが、当然ながら収録されているのは4分33秒分の「無音」で、そのCDを聴くときは結局そのトラックはスキップしてしまいます…。やはりこの曲は実演を体験してこそナンボ。遠い将来、孫に「その昔、“4分33秒”という風変わりな曲があってのう…」と昔話を語ってやりたいと、ほとんどそれだけのために足を運びました。

ジョン・ケージ・ナイトと題したこの演奏会は、International Chamber Music Festival 2011/12の開幕でもあります。文字通りケージの作品(「曲」とか「音楽」とはもはや言えないものもあります)だけを初期から晩年まで網羅するプログラムで、全くの変化球とはいえ、室内楽でシーズンを開けるとは私として非常に珍しいことです。チケットはソールドアウトで、リターン待ちの行列ができていました。最初に司会の人が出てきて、シーズン開幕の挨拶と共に、この著名な作品の上演にあたって、くれぐれも携帯の電源を切るように、と念押しをして笑いを取っていました。

「4分33秒」はプログラムによると初演時の演奏時間に倣って第1楽章30秒、第2楽章2分40秒、第3楽章1分20秒とおおよその演奏時間が規定されております。ピアニストが一人で登場し、ピアノの前に座って、鍵盤にすっと手を伸ばし、音を出さずに指を軽く鍵盤に置いたままの姿勢でじっと30秒待ちます。ストップウォッチか何かで正確な時間を計っている風には見えませんでした。第1楽章が終わると一旦手を引っ込め、再び手を出して、今度は2分40秒じっと動きません。第3楽章も同様です。自分の腕時計を見ていた限り、概ねその通りの時間を守った「忠実な演奏」でした。まず感じたのは、この居心地の悪さは他にないなあ、ということ。普段の演奏会場と比べたらこれ以上はないというほどの静寂がありましたが(普段もこのくらい静かだったらなあ!)、当然のことながら完全な無音状態は実世界ではほとんどあり得ず、小さな咳の音、衣服や紙のこすれる音、ヒソヒソ声に加えて、キーンという軽い耳鳴りも絶えず体内に鳴っており、かのように世界はノイズに溢れているのに、奏者の発する音だけが何も聴こえないというこの不条理。子供のころのかくれんぼ遊びで、暗がりで声をひそめ、音も一切出さないように隠れていると、何故だか笑いがこみ上げてきてしまうあの懐かしい感覚も少し思い出しました。私は修行が足らないのでしょう、そんなこんなの邪念だらけで、静寂を無心に享受するには程遠く、気持ちの落ち着かないことと言ったらありませんでした。逆説的な意味で、近年これほど心を動かされた「演奏」もそうそうありません。ただ、また聴きたいかと言うと微妙なところ。一度体験したらもういいや、という思いと、でもちょっと病みつきになってしまいそうな麻薬性も半分感じます。これがもし「14分33秒」だったら二度と御免ですが、5分弱という時間がなかなか絶妙ではあります。

2曲目の「ラジオ音楽」は8人各々が大小さまざまなラジオを持って出てきて、(多分)楽譜の指示に従いつつチューニングを動かします。聴こえてくるのはノイズだったり、ニュースだったり、音楽だったり、演奏中にオンエアされている放送プログラムによって内容が変わる「不確定性の音楽」ですが、果たしてこれは「音楽」と言えるのかと素朴な疑問が。それを突き詰めて考えるのがすなわちケージの「音楽」なんでしょうけど。

3曲目、ソロ打楽器のための「木の子供」は、全て植物が原材料の、伝統的な楽器とはとても見なせないような様々なオブジェクトを叩いたりこすったり折ったり破いたりして、出た音をマイクで拾い拡声します。鉢植えのサボテンがチャカポコとけっこういい音がしていました。これも、いい年したおっさんが道端に落ちている木の切れ端を適当に叩いて遊んでいるのと何が違うのか、よくわかりません。


4曲目の「ピアノ協奏曲/フォンタナ・ミックス」はプリペアード・ピアノに弦楽四重奏、フルート、クラリネットという編成で、ようやく普通の楽器が出てきてほっとしました。このような曲でも(失礼!)、演奏前にちゃんとチューニングをやるんですねえ。しかし曲はやっぱり実験的要素の強い「不確定性の音楽」で、フルスコアはなく、各パートの断片をアトランダムに繋げてぶつけていくというもの。ただ楽器を演奏するだけでなく、ピアニストは横に置いたペンキ缶のようなものを叩き、他の奏者も時々掛け声のような声を出したり、足を踏み鳴らしたりと賑やかです。演奏時間は20分近くもあり、とにかく長かった。

休憩後の最初は弦楽四重奏曲。初期の作品で、これははっきりと調性・旋律の明確な音楽をベースにメタモルフォーゼしていった感じで、不協和音は多いものの、不安定さや不確定さはなく、格段に聴きやすい音楽でした。むしろ不安定だったのは音程で、ただこれも含めて楽譜に忠実だったのか、あるいはただ単に奏者の力量不足かは判断つきませんでした。

続く「8人のための音楽」は逆に最晩年の作品で、先の「ピアノ協奏曲/フォンタナ・ミックス」とコンセプトはよく似ています。ただし受ける印象はずいぶんと違っていて、多数の小物打楽器と銅鑼代わりの鉄板、床に置いたチャイナシンバル等に囲まれた打楽器奏者が絶えず何か音を出し続け、時にはうるさく叩きまくって、それが20分という長丁場で曲全体の包絡線を形作るのに役立っていました。ピアノはプリペアードではなさそうでしたが、馬のタテガミを弦に通し、引いて音を出すという、相変わらずの飛びっぷりでした。皆さん、一所懸命楽譜を見ながら演奏しておりましたが、いったいそこには何が書いてあるのか興味あります(実は何も書いてないんじゃないのか、何て…)。

最後は「0分00秒」という、「4分33秒」の第2番という位置づけの作品。Wikipediaで調べると、初演は日本で行われたようです。ここでは演奏者が何か「日常的な行為」を行い、その音がマイクとアンプを通して拡声されるというコンセプトだそうですが、この日彼らが選んだ「日常的な行為」は何と「後片付け」。前の曲が終わって一旦引っ込み、またすぐ出てきていそいそと楽器や譜面台を片付けていくものだから、一部の人はもう演奏会が終わったものと勘違いし、席を立ってどやどや帰っていきました。しかし、片付けのノイズがちゃんとピックアップされてスピーカーで流れていましたので、これがまさに今日の「0分00秒」なのでした。一石二鳥のよいアイデアですが、一つ気になったのは、この作品では「すでに行ったことのある行為を採用してはならない」そうなので、果たしてこのアイデアは過去に一切誰もやらなかったのかな、と。まあ、演奏機会がそんなにあったとも思えないし、多分大丈夫なんでしょう。

私はケージの芸術にも、モダンアート一般にも、造詣はほとんどありませんし、お前は今日のパフォーマンスが理解できたのかと聞かれたら、多分さっぱり理解してないと答えるしかないでしょう。ただ、昨年ヴァレーズをまとめて聴いた際にはその突き放したような前衛音楽の前にあえなく討ち死にしましたが、今日も前衛ぶりではひけをとらないプログラムだったにもかかわらず、不思議と心にすんなり溶け込んでくるような「身に馴染む」感覚がありました。ケージが禅に傾倒していて、東洋的(または非西洋的)なものを探求し続けていたことが、もしかすると関係あるのかもしれません。