洗練の極み、クリスティアン・テツラフのソロ・リサイタル2024/10/07 23:59



2024.10.07 紀尾井ホール (東京)
Christian Tetzlaff (violin)
1. J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 二短調 BWV1004
2. J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ長調 BWV1005
3. クルターグ: 「サイン、ゲームとメッセージ」から
 J.S.B.へのオマージュ
 タマーシュ・ブルムの思い出
 無窮動
 カレンツァ・ジグ
 悲しみ
 半音階の論争
4. バルトーク: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Sz.117

元々は翌々日の読響のチケットを先に買っていたのですが、ソロリサイタルもやるに違いないと探したところ、チケットぴあのサイトで見つけました。紀尾井ホール主催公演ではなかったので販売はぴあ、イープラス等のチケット専門サイトのみ。サイトそれぞれで手配できる席が違うのが面倒くさいうえに、慣れないので決済のタイミングがわかりにくく、結局意図とは違う席を買ってしまったのですがそれはさておき。

テツラフのソロは、2012年にロンドンのウィグモアホールで聴いて以来の2回目です。そのときはバッハのソナタ&パルティータの2番、3番というちょっとヘビーなオール・バッハ・プログラムだったので、今日の前半は前回との比較というか、どのくらい印象が変わるのだろうかというのが観賞ポイントです。

昨年同様、近年のスタイルである殉教者のような風貌で登場したテツラフ。この人の演奏スタイルは以前からずっと変わらず、独特の間合いで、まるで息をするかのように自然に音を奏でます。「奏でる」という人為的な行為の表現よりも、「溢れ出る」と言った方が適切かもしれません。前回ソロで聴いたのは12年も前ですが、そのときの細部はともかく感動はしっかり記憶に残っており、備忘録で書き残したことも頼りにしつつ書き連ねると、パルティータ第2番のクライマックス「シャコンヌ」は、以前の一大叙事詩のような劇的表現から生々しさが消え、浄化された響きになっていたのが意外でした。当たり前ですが12年前と全く同じことはやっておらず、枯れた味わいの一歩手前くらい、絶妙な程度で熱量を残しながらも余計なものを削ぎ落としたところに、キャリアを重ねた進化を見ました。

休憩後の後半は、クルターグとバルトークの近現代ハンガリープログラム。「サイン、ゲームとメッセージ」は、YouTubeには多数動画が上がっていて、レコーディングも複数あるわりには、調べても全容がよくわからない謎の曲で、50年以上に渡って継ぎ足されてきた私的な小曲集のようなのですが、楽器もヴァイオリンだったりヴィオラだったり、曲によっては歌が入っていたり、管楽器の合奏だったりと、つかみどころがありません。今日の演奏はソロヴァイオリン・バージョンの全29曲からバッハへのオマージュ曲を含む6曲の抜粋になっており、1、2分の短い曲ばかりなのであっという間に終わりました。馴染みのない曲なので演奏解釈まで論評できないですが、印象としては、先ほどのバッハがゼロ点から表現を足していくような音楽作りだったのに対し、こちらはゼロ点を中心に時にはマイナスに引き、より鋭く、振れ幅の広い表現に少しギアを切り替えていた感じでしょうか。うまく言えませんが。

最後のバルトークの無伴奏ソナタは、完成品としては最後の作品になる晩年の傑作で、レコーディングも多数ある現代の定番曲ではありますが、全曲通して生で聴くのは初めてです。部分的には、12年前のロンドン響演奏会(ブーレーズが体調不良でキャンセルし、エトヴェシュが代役)でソリストだった他ならぬテツラフが、アンコールで第3曲「メロディア」を弾いたのを聴いていますが、この時の演奏が凄まじく良かった(と、備忘録を読んで思い出した次第)。はたして本日のバルトーク全曲も、記憶に違わぬ緻密で繊細な表現に加え、やはりここでも徹底的に洗練を追求した贅肉のない演奏。それでいて冷たかったり枯れた印象にならないのは、ずっとトッププレイヤーで走ってきた円熟のなせる技ではないかと。ソロコンサートに挑むときのテツラフは、もちろん曲ごとの解釈と表現はあれど、バッハでもバルトークでも、その個性的でナチュラルな息づかいをとことん研ぎ澄ました、まさにテツラフだけの世界を体現してくれるのが素晴らしいです。アンコールは、今日演奏しなかったバッハのソナタ第2番から「アンダンテ」。最後にオヤスミを囁くような短いフレーズを弾いて、お開き。

テツラフはいつ聴いても安定して最高峰の凄みを体感させてくれる、相変わらず別次元のアーティストでした。文句のない高品質のコンサートでしたが、小さいホールにも関わらずけっこう空席が目立ちました。翌々日の読響のほうはサントリーホールが完売御礼だったので、運営の不手際ではないでしょうか。チケットサイトも、もっとやる気を出さんかい。

パシフィックフィル東京:ラヴェル、バルトーク、レスピーギ、ストラヴィンスキーの擬古典作品集2024/09/07 23:59

2024.09.07 東京芸術劇場コンサートホール (東京)
パシフィックフィルハーモニア東京
Henrik Hochschild (play & lead)
1. ラヴェル: クープランの墓
2. バルトーク: ディヴェルティメント BB118
3. レスピーギ: ボッティチェッリの三連画
4. ストラヴィンスキー: バレエ音楽「プルチネッラ」組曲

「パシフィックフィルハーモニア東京」は旧称「東京ニューシティ管弦楽団」が2022年に名称変更した在京9番目のプロオケで、どっちにしろ聴くのは多分初めて。昨年、「クープランの墓」が突如マイブームになり、ピアノ原曲、オケ編曲のいろんな演奏を聴き漁るうち、やはり実演で聴かぬことには、と思い探したところ、このコンサートを見つけた次第です。

本日のコンセプトは「ドイツ音楽界の重鎮が室内学的アプローチで導く、同時代を生きた4人の作曲家が描いた、精緻で鮮やかな音楽絵巻」とのことで、ラヴェル(1875-1937)、レスピーギ(1879-1936)、バルトーク(1881-1945)、ストラヴィンスキー(1882-1971)というまさに同世代の天才たちが擬古典的な形式を取り入れた小編成の作品が並んでいます。元より打楽器が登場しない演奏会などほとんど聴きに行くことがなく、それもあって今日はどれも大好きな作曲家たちにも関わらずこれらの演目を過去にほとんど聴いたことがなかったのですが、奇しくも去年から心がけている「念願の選曲を落穂拾いする演奏会」の一環になりました。

しかし、このような趣向は個人的には高く評価するのですが、一般ウケはしないだろうなと思っていたら、案の定、客入りは半分くらいで空席が目立ちました。今日の演奏会は指揮者を立てず、特別首席コンサートマスターのヘンリック・ホッホシルト(元ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管コンマス)の「弾き振り」による演奏になるのですが、実際には指揮行為は全くやらず、それどころか合図もほとんど出さず、まさにヴァイオリンの音とジェスチャーのみで楽団を引っ張る硬派なスタイルでした。最初登場したホッホシルトは、バティック(インドネシアの正装)とおぼしきキンキラのシャツで登場し、外見からして一人だけ異色に目立っていましたが、後でプロフィールを読むと現在ジャカルタのオーケストラでも音楽顧問をやっているようで、そういうことかと納得。

1曲目の「クープランの墓」は、第一次大戦に従軍したラヴェルが、戦死した知人たちを偲んで作曲したピアノ曲を後に自身で管弦楽版に編曲したもので、バロック音楽時代の形式を模倣した舞曲組曲になっていて、一見明るく華やかな曲調の中にも所々顔を出す憂いを帯びたハーモニーに何とも惹きつけられる名曲です。備忘録を見るとちょうど10年前に都響で聴いていますが、うーむ、ほとんど覚えていない…。今日のオケは弦が8-7-6-4-3の小規模な2管編成で、指揮者がいない分、安全運転気味の進行。ちょっと表情付けに乏しい気もしましたが、ピリオド系と思えばこれはこれで良いのかも。オーボエとトランペットを中心に管奏者の腕前が確かで、意外と言ったら失礼ですが、期待以上の少数精鋭で安心して聴いていられました。

次のバルトーク「ディヴェルティメント」は一度ロンドンでロイヤルカレッジの学生オケを聴いて以来。バルトーク好きの私も、これが演目に上がっている演奏会をフル編成のオーケストラではほとんど見たことがありません。弦楽合奏のみで、形式は古典的な合奏協奏曲を倣いながらも、内容はバルトークらしい民族色の強い旋律とリズムが特徴的な曲です。小編成ながらも弦の響きがオルガンのように重層的で、さすがに弦がよく鍛えられたオケだなと感じました。こちらも指揮者なしの影響か、角が取れて淡々とした演奏に終始し、バルトーク好きとしてはもうちょっとリズムをえげつなく際立たせて欲しかったところです。

休憩を挟んで3曲目のレスピーギは初めて聴く曲でした。いずれもウフィッツィ美術館に展示されているボッティチェッリの超有名な絵画、「プリマヴェーラ」「マギの礼拝」「ヴィーナスの誕生」をモチーフに作曲された交響詩で、こちらは古典から形式ではなくフレーズをいろいろと引用しているようです。ローマ三部作のような極彩色には届きませんが、小編成ながらもピアノ、チェレスタ、ハープに、グロッケンシュピール、トライアングルの金物打楽器を加えた効果もあり、コンサート前半の曲と比べると一気に色彩感が増します。また、テンポも頻繁に動くので、指揮者がいないと本当に大変そうな曲でした。それでもほとんど乱れることなく推進する音楽に、トレーナーとしてのホッホシルトの力量を見ました。多分これが一番練習した曲ではないかな。

最後の「プルチネッラ」は、昔から大好きな曲だったのですが実演で聴くのは初めて。ここまでは本来の指揮者スペースを空けて配置していたオケが、この曲ではそのスペースを詰め、ちょうど第1ヴァイオリンのコンマス、第2バイオリン、ヴィオラ、チェロのそれぞれトップが距離をぐっと縮めて弦楽四重奏をかたち作り、その周りをオケが取り囲むかのような配置になりました。もうこの曲に至っては指揮者なしでやる方が珍しいくらい複雑なスコアになってくるので、こまめなテンポ変化はなくやはり淡々とした印象とはなりました。しかしながら、ここでも管楽器が皆さん素晴らしかった。この曲は管のソロが肝で、ヘロヘロだととても聴いていられないのですが、ほぼ完璧な仕事に脱帽しました。弦も管も想像以上にしっかりしていて、普通にプロフェッショナルなオケでした。当たり前のようで、そう思わせてくれない演奏会も正直少なくないので…。しかし、今日のコンサートにはこの芸劇ホールは広すぎる。本来なら、文化会館の小ホールとか、もっとこぢんまりとしたスペースで聴かせるのが良かったでしょうね。


今だからこそ「祈り」の音楽:読響/カンブルラン/金川真弓(vn)2024/04/05 23:59



2024.04.05 サントリーホール (東京)
Sylvain Cambreling / 読売日本交響楽団
金川真弓 (vn-2)
1. マルティヌー: リディツェへの追悼
2. バルトーク: ヴァイオリン協奏曲第2番
3. メシアン: キリストの昇天

今シーズンの読響でカンブルランが来るのはこの日だけのようなので、何はともあれ買ったチケットです。バルトーク以外は馴染みがなかったものの、カンブルランらしい東欧とフランスを取り混ぜたプチ玄人好みのプログラム。客入りはちょっと空席が目立つ感じでした。

1曲目はナチスドイツから逃れて米国に亡命したマルティヌーが、ドイツ軍が起こしたチェコ(ボヘミア)の小村リディツェの虐殺事件を題材に書いた小曲で、タイトルからして初めて聴く曲です。亡命チェコ政府に将校を暗殺されたことに激怒したヒトラーが、犯人を匿った(とされた)リディツェの掃討を命じ、男性200人は銃殺、女性と子供300人は強制収容所送りとなって、村が壊滅したという酷い話です。この時期、あえてこの曲をプログラムに乗せるのはいろいろと含みがあるでしょう。重苦しく始まり、途中でベートーヴェンの「運命の動機」が鳴り響いたりもしますが、悲痛な音を続けるわけではなく、どちらかというと祈りと癒しのような音楽でした。

バルトークのコンチェルトは最も頻繁に聴きに行く曲の一つで、前回は2022年の都響でした。金川真弓さんは1994年生まれの米国籍、現在はベルリン在住の若手ヴァイオリニストで、チラシで時々名前が目に入りますが、演奏は初めて聴きます。この曲は奏者によってガラリと表情が違ったりして聴き比べが非常に楽しいのですが、金川さんはゆっくりとしたテンポで非常に端正に弾くスタイル。音色は終始綺麗で澄んでいて、あえて荒っぽくワイルドに弾きたがる人も多い中で、先生の模範のような演奏でした。カンブルランも小細工なしでソリストにぴったり合わせてきます。過去に聴いた中では、ジェームズ・エーネスが近いスタイルでしょうか。民族色などあえて考えずにスコアと真摯に向き合うことで、この曲に内在する自然の力強さが逆に浮き彫りになってくるのが面白く、真の名曲だとあらためて思いました。

メインの「キリストの昇天」は、メシアン初期の代表作だけあって有名ですが、メシアンはあまり自分のカバー範囲ではないので、ほぼ初めて聴く曲でした。メシアンが独自に見出した「移調の限られた旋法」に基づいて作られており、いわゆる現代音楽とは一線を画する独特の音響感があります。フルの3管編成のオケながら、全員で演奏する時間は極めて短い、コスパの悪い曲。第1楽章の金管コラールからして、いちいちアタックがブレる上に音も濁り気味で、ブラスが弱い日本のオケにはなかなか厳しいものがありました。弦楽器は前半暇で、後半やっと出番が増えたかと思いきや、終楽章は弱音器を付けて、一部の奏者のみでミニマルでストイックな音楽に終始します。うーん、奏者には苦行のような曲で、達成感なさそう。しかしよく考えると、神に捧げる音楽に俗世の達成感は関係ないでしょうから、邪念にまみれた自分を恥じ入りました。

ということで、演奏よりも曲自体の感想に終始してしまいましたが、選曲にも、演奏のクオリティにも、さすがカンブルランの演奏会にハズレはありません。次のシーズンはもうちょっと来てくれたら良いなと。

小澤征爾の思い出2024/02/10 23:59

昨日の小澤征爾氏の訃報に接し、まずは心より哀悼の意を表します。
まだまだこれからという時に、というわけでもなく、とうとうこの時がきたか、という思いではあります。

自分がクラシック音楽を聴き始めたとき、すでに大スターでした。特に日本では、カラヤン、バーンスタインと肩を並べる三大巨頭として、クラシックが趣味ではない人にも名が知れ渡る人気ぶりでした。

実演を聴くことができたのは2回しかありません。

最初は1981年10月のボストン響との来日公演初日、大阪フェスティバルホールでの「田園」と「春の祭典」という濃いカップリング(これがAプログラム)。正直、細部はよく覚えていませんが、初めて聴いた海外一流オケの圧倒的パワー(特にヴィック・ファース氏の強烈なティンパニ)に感銘を受けました。このとき、田園のスコア表紙に書いてもらった小澤氏と、さらにコンマスのシルヴァースタイン氏のサインは生涯の宝物です。さらには、このときのBプログラムであるウェーベルン「5つの小品」、シューベルト「未完成」、バルトーク「オーケストラのための協奏曲」が、権利にうるさいアメリカのオケとしては珍しくNHK-FMで生中継されており、そのエアチェックのカセットテープも後生大事に持っています。ここで聴いたオケコンがあまりに刺激的で、私のバルトーク好きを決定づける原点となりました。余談ですが、この演奏会では小澤氏が「短い曲なのでもう1回聴いていただきたい」と言ってウェーベルンを2回繰り返すという異例のハプニングも、生放送なのでそのまま放送されていました。


2回目は、長年の因縁と紆余曲折を経て、演奏家へのチャリティーという名目で1995年に実現した32年ぶりのN響との共演。N響との確執はリアルタイムでは知らないので特に関心も感慨もなかったのですが、何より小澤のオケコンが聴ける、というその一点で必死にチケット取りました。演奏会当日の直前に発生した阪神淡路大震災の追悼に「G線上のアリア」が最初に演奏され、ロストロポーヴィチによるアンコールの「サラバンド」が同じく追悼で演奏された後、全員で黙祷し、拍手のないまま散会という異例づくしの演奏会でした。オケ側に固さとミスは多少あったものの、スリリングな緊張感を保った小澤のオケコンは期待通りの感動で、ハイテンションのまま帰路についたのを覚えています。


世が世なら3回目としてチケットを取っていたのが、2012年のフィレンツェ五月祭劇場のバルトーク「中国の不思議な役人」「青ひげ公の城」ダブルビル。前年のサイトウ・キネン・フェスティバルで初演されたノイズム振付・演出のプロダクションをそのまま持ってくる予定だったのですが、小澤氏はこの直前から病気治療のため長期休養に入ることになり指揮をキャンセル。仕方がないとは言え肩透かしを喰らいました。

レコードで好きだったのは、やはり一番アブラが乗っていた1970年代後半から80年代にかけてのドイツ・グラモフォンへの録音で、マーラー「巨人」、プロコフィエフ「ロミオとジュリエット」、バルトーク「役人」も素晴らしかったですが、特にレスピーギ「ローマ三部作」とファリャ「三角帽子」の完成度は、今なお自分の中のリファレンスになっています。

入手困難だった廃盤や自主制作盤が、これを機に再発してくれたら、とは切に思います。その個人的筆頭はボストン響との「青ひげ公の城」1980年ライブ。サイトウ・キネン・フェスティバルの「中国の不思議な役人」「青ひげ公の城」は当時NHK-BSで放送されていたようなので、その再放送もやってくれたらたいへん嬉しいのですが。

読響/山田和樹:小澤征爾先生に捧げる「ノヴェンバー・ステップス」2024/02/09 23:59

2024.02.09 サントリーホール (東京)
山田和樹 / 読売日本交響楽団
藤原道山 (尺八-2), 友吉鶴心 (琵琶-2)
1. バルトーク: 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽
2. 武満徹: ノヴェンバー・ステップス
3. ベートーヴェン: 交響曲第2番ニ長調

本日の演目は、弦チェレは10年ぶり(前回は大野/都響)、ノヴェンバー・ステップスは11年ぶり(大野/BBC響)、ベト2は14年ぶり(アントニーニ/ベルリンフィル)と、どれも非常に久々に聴くものです。尺八、琵琶のお弟子さん筋なのか、お客はいつもより和服の人が多かったです。

本日のステージは円形の雛壇が組んであり、弦楽器の後方が普段より高いところに位置していました。ちょっと奮発してストール席を取ったのですが、前方の際の方だったので肝心の打楽器、チェレスタが弦奏者に遮られて見えにくい。なぜこのような配置なっているかというと、弦チェレと武満がどちらもスコアで左右対称な対向配置になるよう指定されているためで、想定しておくべきでした、残念…。

1曲目の弦チェレはバルトークの代表作ですが、特殊な編成になるので演奏会のプログラムに乗ることが意外と少ないです。ヤマカズさんは昨年の都響で三善晃「反戦三部作」を聴いて以来です。それに比べると今日の演目はリラックスして聴けるので、実際ヤマカズも飛んだり跳ねたり、本来の明るいキャラクターで千手観音のような指揮ぶりでした。オケの配置の特徴から指揮者のバトンさばきも、指揮棒を持たずに右手と左手が左右対称で動くか、あるいはシンクロした動きになるかで、「ダンス度」が非常に高い、見ていて飽きないものでした。一方でこの配置と雛壇のおかげで、音がいったん上に飛んでから降りてくるため左右の微妙なズレが強調され(真正面で聴いていた人は違うのかもしれませんが)、また音の重心が高く、低音が腹の底から来ないところがちょっと不満ではありました。演奏そのものはメリハリが効き、ゆさぶりも大きくライブ感溢れる好演だったと思いますが、細部の仕上がりがちょっと雑だった印象です。第1楽章が消え入るように終わるところで大きなくしゃみをやらかした輩がいましたが、コロナ禍もすっかり明けて聴衆はまた緩んできていますかなー。

ここで休憩ですが、演目の編成を考えると武満までやってから休憩にしたほうがいいのにな、と思いました。メインがベト2だと軽いとかバランス悪いという理由なら、いっそ1曲目をベト2にする手もありますし。大昔聴いた京大オケ、外山雄三指揮の演奏会がそんな感じでした。ベト2で始まり、ドヴォルザークのチェロコンと続き、最後は「三角帽子」第2組曲で締めるという(しかも「三角帽子」の終曲を再度アンコールでやるという効率の良さ)。

後半最初の「ノヴェンバー・ステップス」は、武満のみならず全ての邦人現代音楽の中でも突出した代表的作品。実演は2013年にロンドンBBC響の「Sound from Japan」で聴いて以来(このときは意外にも英国初演だったそう)の2回目です。ソリストを携えずマイクを手に一人で登場したヤマカズ氏から告げられたのは、「小澤征爾先生が亡くなられました」という訃報。場内「えっ」というどよめき。亡くなったのは2月6日だったそうですが、発表は9日の夜7時過ぎで、当然ほとんどの人は訃報を知らず。くしくも本日の演目は小澤征爾とゆかりが深い曲ばかりで、特に「ノヴェンバー・ステップス」は小澤の推薦によりNYPの創立125周年記念委嘱作品として世に生まれ出た曲です。しかも小澤指揮のNYPで1967年に初演された際、カップリングされたのがベートーヴェンの第2番という、偶然というにはあまりに揃いすぎているこのプログラム。ヤマカズ氏は、演奏会で暗い気持ちにさせるのは先生の本意ではないはずなので、黙祷はせず、この演奏を先生に捧げます、とのこと。

この曲のリファレンスとしては、小澤/トロント響、ハイティンク/コンセルトヘボウ、若杉/東京都響の3種のレコーディング(ソリストはいずれも初演者の横山勝也と鶴田錦史)と、前回実演で聴いた大野/BBC響の演奏をBBC Radio 3で放送した際エアチェックした音声データが手持ちのライブラリにありましたが、そのどれともまた違う個性的な演奏でした。まず私は純邦楽の知識も素養もほぼ何もないただの素人リスナーであることをお断りしておくとして、一見シュッとした若手イケメンに見えるものの実はそんなに若くない藤原道山の尺八が素晴らしかったです。今まで聴いたことがない澄み切った音色の尺八で、まるで美声の詩吟のように朗々とした唄がホールに響き渡ります。もちろん尺八特有のノイジーな奏法もふんだんに使われていますが、無理に力強さを出そうとせず、一貫して透明感をキープ。西洋の機能的な木管楽器寄りのアプローチで、一歩後ろに下がったオケの前に君臨する圧倒的ソリストという図式は伝統的なクラシック音楽との垣根を感じさせませんが、これを近代フルートではなく尺八で実現させているところが凄いです。一方の琵琶師、友吉鶴心は初演者鶴田錦史の直系弟子で、こちらは師匠譲りの力強いインパクトがありました。西洋クラシック音楽の伝統から見たら調律の狂ったノイズでしかない、もはや音とも音楽とも言えないような薩摩琵琶の様々な奏法が孤軍奮闘でオーケストラさらには尺八と対峙します。楽器と音自体はしなびた感じですが、バルトーク・ピチカートを思わせる弦を胴体にバチンと打ち付ける撥弦奏法(何て呼ぶのかわかりません)のキレは抜群。オケは協奏的な伴奏というより合いの手に徹し、あくまで後方に下がってソリストを支えますが、トランペットなどはもうちょっと繊細に対処してもらいたかったという不満はちょい残るものの、ヤマカズ氏の最初の言葉通り、渾身、入魂の「ノヴェンバー・ステップス」だったと思います。最後に断末魔のように息切れた尺八のあと、ずいぶんと長く静寂を引っ張ったのは、まさに小澤先生への哀悼の思いがあったのでしょう。タクトを下ろしたあとは、聴衆皆それぞれの追悼の意を込めて盛大な拍手が続きました。

この後のベートーヴェンのために配置を変えるのでけっこう時間を取っていて、やっぱり休憩の位置が間違っていたのでは、との思いは消えず。最後のベト2ではさすがに普通の対向配置に戻すのではと思っていたら、二つの弦楽群を完全に左右対向に分けた配置は踏襲したまま演奏を始めました。ヴァイオリンの第1を左、第2を右という伝統的な対向配置ではなくて、第1、第2がどちらも均等に左右に分かれているのは、私は初めての経験で、結論から先に言うと目的とか効果が最後までよくわかりませんでした。左右で均等に鳴っている弦楽群(さらにはそのせいで倍に補強されている管楽群も含め)は、勢いは確かにあるのですが、学校の運動会を連想させるスピード感と落ち着きのなさで、何だかわちゃわちゃしてアンサンブル精度の悪い演奏に聴こえました。よく見ていると対向配置といっても、第2楽章冒頭はヴァイオリンとヴィオラのトップだけにしてみたり、第3楽章のトリオ部では左群のオケだけ鳴らしてみたりとか、スコアの改変に近い仕掛けもあり、細部に何か意図はありそうですが、まあそんな繊細な話は抜きにしてもヤマカズ氏はここでも大熱演。思いが強烈に伝わるダイナミックな指揮ぶりで、この特別な日に特別な演奏会に遭遇できたことをたいへん感慨深く思います。

N響/マダラシュ:ハーリ・ヤーノシュ他、充実のハンガリアン・ナイト2023/11/10 23:59



2023.11.10 NHKホール (東京)
Gergely Madaras / NHK交響楽団
阪田知樹 (piano-2)
1. バルトーク: ハンガリーの風景
2. リスト: ハンガリー幻想曲
3. コダーイ: 組曲「ハーリ・ヤーノシュ」

小雨の中、NHKホールへ。雨降りには一番嫌なホールです。それでも、このところ続いている「念願の選曲を落穂拾いする演奏会」なので気分はハイです。「ハーリ・ヤーノシュ」は昔から大好きな曲で、ハンガリーに住んでいたころ全曲版の舞台を1回見ることができたのはラッキーでしたが、ハンガリーにいてさえ滅多にやってくれない演目です。コダーイはバルトークと並び立つハンガリーの2大巨塔とはいえ、やはりレパートリーの人気度ではバルトークとの落差を感じずにはおれません。「ハーリ・ヤーノシュ」の組曲も、もしプログラムに見つけたら万難を廃して聴きに行ってるはずですが、曲の知名度に比してなかなか演目には乗らない曲。前回組曲版を実演で聴いたのは40年以上前、山田一雄指揮の京大オケまで遡ります。

今回N響には初登場のマダラシュは、昨年都響で聴いて以来です。土着のネチっこさとスタイリッシュさを兼ね備えた、今どきのハンガリアンという印象。1曲目「ハンガリーの風景」はバルトークが自らのピアノ曲を寄せ集めて管弦楽に編曲し直したもので、個人的にもよく聴く曲ですが、実演は意外と初めて。マダラシュはキレの良いリズムの中に、ハンガリー民謡の独特の節回しを一所懸命伝えようと奮闘し、オケも若い指揮者に喰らいついて行こうと頑張る姿がN響らしくなく微笑ましいです。譜面台にはポケットスコアを置いていましたが、ほとんど見てない。そう言えば、ハンガリー出身の指揮者は古今東西沢山いらっしゃいますが、日本のオケを振っている姿はあまり目に浮かんでこないので、本場もののハンガリーは意外とレアケースなのかも。

次のリストの「ハンガリー幻想曲」は、一転して民謡色が薄れ、リストが捉えたハンガリーの音楽であるロマ色が濃くなっています。全く知らない曲でしたが、リストらしいヴィルトゥオーソの嵐。風貌からはもう少し年長に見える(失礼!)阪田知樹はまだ20代の人気の若手ピアニスト。長身で手が長くゴツい印象で、ラフマニノフのようです。力強いタッチと正確によく回る指は、もちろん教育と鍛錬もハンパじゃないとは思いますが、恵まれた体格が天賦のモノを感じました。個人的には、長髪は昭和臭が漂うのでやめた方がよいと思います。技巧的なリストを弾ききったあとは、アンコールでバルトーク「3つのチーク県の民謡」をサラッと弾いてくれてラッキー。ブダペストのリスト国際コンクールで優勝しただけあって、このあたりがオハコなんですね。

さて、メインイベントの「ハーリ・ヤーノシュ」。只々、感動です。舞台が遠かったので音量はオケに負けていましたが、それでもツィンバロンの響きが非常に懐かしい。そんなに長い曲ではないのですが、N響からは大曲に取り組むような気合が感じられ、集中力を一段高めた管楽器のソロはどれも概ね素晴らしい仕上がりでした。マダラシュもこの老獪なオケを実に器用にコントロールして、ハンガリー民謡の節回しをたっぷりと歌わせ、何より指揮者も奏者も皆とても楽しそうに演奏しているのがたいへん良かったです。「ハーリ・ヤーノシュ」、演奏難易度が高く、ツィンバロンもあったりして、なかなか簡単にはプログラムに乗せられない演目かもしれませんが、もっともっと演奏されても良いのになあ、とあらためて思いました。

本日の客入りは上の方の階だと3分の1くらいでちょっと寂しいものでした。またこのプログラムのボリューム感は、本来Cプロでやるのはもったいない気がしました。個人的には、チェロの一番後ろで弾かれていた女優ばりの超美人奏者にずっと目がクギ付けでした・・・。


マダラシュ/都響/シュパチェク(vn):ハンガリー × チェコ = コバケン?2022/10/08 23:59

2022.10.08 サントリーホール (東京)
Gergely MADARAS / 東京都交響楽団
Josef ŠPAČEK (violin-2)
1. リスト (ミュラー=ベルクハウス編): ハンガリー狂詩曲第2番
2. バルトーク: ヴァイオリン協奏曲第2番 (第2稿)
3. ドヴォルザーク: 交響曲第8番 ト長調

何やかんやで間隔が空き、半年ぶりの演奏会。都響は2年8ヶ月ぶり、バルトークのコンチェルトは5年ぶり、ドボ8は好きな曲なのに何故か巡り合わせが悪く、何と18年ぶりの生演です。今日の演目はちょっと不思議で、ハンガリー人指揮者とチェコ人ソリストの組み合わせながら、協奏曲がハンガリーの曲でメインがチェコの曲というねじれ関係にあります。ありがちな選曲パターンだと、協奏曲はドヴォルザークかマルティヌーで、メインはオケコン、ということになりそうですが、個人的にはそうならなくて良かったです。

マダラシュ・ゲルゲイはハンガリー出身の若手指揮者。同じハンガリーにマダラス・ゲルゲイというテニス選手がいるのでGoogle検索では紛らわしいですが、指揮者はMadaras、テニスはMadarászで、苗字が違いました(語源は多分同じですが)。地元のサヴァリア交響楽団から出発し、現在ベルギー王立リエージュ・フィルの音楽監督。日本では広島響、京都市響への客演を経て東京都響が今回初共演だそう。欧州各所でオペラも振り、地味でも地道にキャリアを積み上げている人のようです。1曲目のハンガリー狂詩曲は出だしの呼吸が少し乱れて、おそらくリハの時間が十分ではなかったのかと思いますが、その後のテンポの揺さぶりを難なく乗りこなしていく百戦錬磨のリーダーシップが頼もしく感じられました。初めて聴くミュラー=ベルクハウス版のハンガリー狂詩曲第2番は、重厚で色彩的が豊かになった分、ピアノ曲の面影はさらに薄まっている気がします。

2曲目、元チェコフィルのコンマスであるシュパチェクの奏でるバルトークは、最初は適度に荒れた質感で、まさにチェコフィルの弦という飾り気のないナチュラルな音。2011〜2019年の間コンマスをやっていたとのことなので、多分その当時にも聴いたことがあるかもしれません。澄み切った美しい高音を響かせたかと思うと、速いパッセージも難なく高速で弾き切り、なかなかのテクニシャンぶりを発揮。長身でシュッとしたイケメンですが、イメージは素朴な東欧の兄ちゃん。変幻自在に楽器を操りながらも演奏に派手さや押しの強さはほとんどなく、しみじみと染み入るタイプのバルトークです。この曲を弾く西側のヴァイオリニストはけっこう派手系の人が多い印象ですが、原点に帰ってこういうバルトークも良いものです。オケのほうはあまり見栄を切らずに大人しめで、ソリストを際立たせる意図があったんではないかと、メインを聴いた後で思いました。アンコールは「母がよく聴かせてくれた故郷モラビアの小曲です」と言って、独奏曲にもなっていない、本当に素朴な民謡を静かに奏でました。多分予定外に何度もカーテンコールで呼び出されたために急遽その場でやったのかと思います。

メインのドボ8は、また元に戻って随所でテンポを(あえて?)田舎臭く揺さぶり、大見栄を切った演奏で、ふと思い出したのがコバケンこと小林研一郎。18年前に聴いたドボ8はコバケン指揮のブダペストフィルだったのですが、まさにこんな演奏だったように思います。ハンガリーでは知らぬ人がいない有名人で、チェコフィルとも縁が深いコバケンですから、もしかしたら若かりしマダラシュも私と同じ演奏会を聴いていて感銘を受け、同じ方向性を目指したのかなとちょっと妄想しました。いや、決してくさしているわけではなく、マーラーやブルックナーではないからオケも破綻することなくしっかりと音が前に出ていて、たいへん良い演奏でした。それと同時に、コバケンのドヴォルザークをまた聴いてみたくなりました。

小泉/都響/イブラギモヴァ(vn):とっても個性的なバルトークと、とっても普通のフランク2017/10/24 23:59

2017.10.24 サントリーホール (東京)
小泉和裕 / 東京都交響楽団
Alina Ibragimova (vn-1)
1. バルトーク: ヴァイオリン協奏曲第2番 Sz.112
2. フランク: 交響曲ニ短調

ロンドンでは結局1回しか聴けなかったアリーナ・イブラギモヴァ。そのアリーナが待望の来日、しかもバルトークの2番、これは聴き逃す手はありません。ふと振り返ると、昨年はバルトークの曲自体、1回も聴きに行けておらず、ヴァイオリン協奏曲第2番も一昨年のN響/サラステ(独奏はバラーティ)以来。

アリーナも日本でそこまでの集客力はないのか、もっと盛況かと思いきや、結構空席が目立っていました。田畑智子似のちょっと個性的なキューティは、三十路を超えても健在でした。さてバルトークの出だし、第一印象は「うわっ、雑」。音程が上ずっているし、音色も汚い。しかしどうやら狙ってやってるっぽい。この曲をことさらワイルドに弾こうとする人は多いですが、その中でも特に個性的な音楽作りです。ステレオタイプなわざとらしさは感じないし、不思議な説得力があるといえば、ある。ちょうど耳が慣れてきたところでの第1楽章のカデンツは絶品でした。繰り返し聴いてみたくなったのですが、録音がないのが残念。オケはホルンが足を引っ張っり気味で、小泉さんの指揮も棒立ちの棒振りで完全お仕事モード、どうにも面白みがない。ただし、終楽章は多分ソリストの意向だと思いますが、かなり舞踊性を強調した演奏で、オケもそれに引っ張られていい感じのノリが最後にようやく出ていました。エンディングは初稿版を採用していましたが、せっかくの見せ場なのにブラスに迫力がなく、アリーナはすでに弾くのをやめているし、物足りなさが残りました。どちらかというと私はヴァイオリンが最後まで弾き切る改訂版の方が好きです。

メインのフランク。好きな曲なんですが、最後に実演を聴いたのはもう11年も前の佐渡裕/パリ管でした。小泉さん、今度は暗譜で、さっきと全然違うしなやかな棒振り。ダイナミックレンジが広くない弱音欠如型でしたが、力まず、オルガンっぽい音の厚みがよく再現されている、普通に良い演奏でした。小泉和裕は、初めてではないと思いますが、ここ20年(もしかしたら30年)は聴いた記憶がありません。仕事は手堅いとは思いますが、やっぱり、小泉目当てで足を運ぶことは、多分この先もないなと感じます。

カンブルラン/読響:「青ひげ公の城」が透けて見える!2017/04/15 23:59


2017.04.15 東京芸術劇場コンサートホール (東京)
Sylvain Cambreling / 読売日本交響楽団
Bálint Szabó (Bluebeard/bass-3), Iris Vermillion (Judith/mezzo-soprano-3)
1. メシアン: 忘れられた捧げもの
2. ドビュッシー: 〈聖セバスティアンの殉教〉交響的断章
3. バルトーク: 歌劇〈青ひげ公の城〉(演奏会形式)

正直、マイナーとは言わないまでも、このカンブルランならではの渋すぎるプログラムに、ここまで客が入るとは驚きでした。今回の選曲は、バルトークとドビュッシーが共に1911年の作曲で、1曲目のメシアンだけ1930年作曲と、時代が遅れておりますが、むしろメシアンが一番調性寄りの穏やかな音楽に感じてしまいました。「忘れられた捧げもの」は初めて聴く曲でしたが、カンブルランは全てを熟知したようなコントロールで、レガートをきかせてひたすら美しく流れると思いきや、唐突に大きな音で驚かせたりと、素人はなすすべなく遊ばれました。2曲目のドビュッシーも、実演では初めて聴きますが、いかにもというつかみどころのない曲。今日はファンファーレ付きの演奏でした。弦を中心とした精緻な音作りは、他の指揮者のときとはやはり集中力が違いました。

本日のメインイベントはもちろん久々に聴く「青ひげ公の城」。実演は一昨年以来ですが、帰国してからすでに4つ目のオケですから(東フィル、都響、新日フィル、読響)、日本でもやっと定番レパートリーの地位を得たのであればたいへん喜ばしい限りです。今回の歌手陣はどちらも初めて聴く人でした。青ひげ公役のサボー・バーリントは以前も聴いたような気がしていたのですが、いろいろと記録を辿ると、I・フィッシャー/コンセルトヘボウの映像配信で歌っているのを見ていただけで、その直後に同じ指揮者で実演を聴いたブダペスト祝祭管と共演していたコヴァーチ・イシュトヴァーンと、どうも記憶が混同していたようですが、それはさておき。

欧州では演奏会形式でも前口上までちゃんとやるのが昨今の主流ですが、現行のペーテル・バルトーク編完全版スコアで用意されているのはハンガリー語と英語だけなので、日本では前口上なしで済ますのが普通になっていて寂しいです。今日はさらに、第1の扉の前などで聞こえてくる「うめき声」も省略されていて、あくまで純粋音楽としてのアプローチでした。カンブルランのちょっとフレンチなバルトークは、ハンガリー民謡のタメなどはほとんど気にせず淡々と進行し、和声の構造を裏側までくっきり際立たせる見通しの良い演奏で、ここまで徹底したのはありそうであまりなかった、非常に新鮮な響きでした。ただしオケは途中から熱が入りすぎて歌をかき消す音量になってしまったので、大部分はもうちょっと抑え気味でも良かったのでは。ユディットはドイツ人のフェルミリオンで、レパートリーとしてはまだ日が浅いのか、この曲を楽譜を立てて歌っている人は初めて見ました。歌は激情型で悪くはなかったのですが、ハンガリー語が不明瞭だったのが気になりました。対するサボーはハンガリー語を母国語とするトランシルヴァニア(現ルーマニア領)出身のバスなので、二重の意味でこの曲はもちろん十八番。席が遠かったので声があまり届いてこなかったのが残念でしたが、多分近距離正面で聴けば渋さが鈍く光る貫禄の青ひげ公だったのだろうと感じました。やっぱり歌ものはなるべく近くの正面で聴きたいものです(が、良席はすでに完売でした・・・)。

「青ひげ公の城」ディスコグラフィーと、珍しい「日本語盤」2015/09/30 23:59


ずいぶん以前に途中まで作って放置していた、「青ひげ公の城」のディスコグラフィーを先の連休中にえいやで仕上げました。音楽ダウンロード2点、DVDソフト2点を含む、39点の所有ディスクのデータを整理してみただけですので、大したものではございません。私が認識している、まだ未所有のソフトについても分かる範囲でデータを載せており(CD-R等、非正規盤と思われるものは除外しております)、世の中に出回っている、あるいはかつて出回っていた音源については、これで結構網羅できているのではないかと思います。

これに伴い、ホームページに長らく「Under Construction」で放置していた「青ひげ公の城 8番目の扉」を仮設で開設しました(スタイルシートを使ってもうちょっとカッコよく作りたいんですが、まだ気力がなく…)。元々やりたいと思っていたのは、各ディスクのレビューと、ラップタイムの詳細な比較ですが、まずはデータベースのリストのみ公開しました。仕事が一段落したら、希望的観測では週に1枚くらいのペースでレビューを書き足して行きたいと思っていますが、さてそう上手くいくかどうか。

今回リストを仕上げるのにいろいろ調べている中で、最近になって初めて存在を知った、日本語版の「青ひげ公の城」という珍盤があり、速攻で入手しました。Naxos Music Libraryの「N響アーカイブシリーズ」として2012年にオンラインのみで配信開始されており、2014年9月からiTunes Music Storeでも売られていたようです。Amazon、Tower、HMVに出てくれば私の網にかかったはずですが、Naxos、iTunes限定とは、してやられました。

レビューはまたあらためて書くとして、「青ひげ公の城」をこれほど新鮮な気持ちで聴くのも久々で、頬が緩みっぱなしでした。1957年のN響演奏会記録を見ると、日比谷公会堂の定期演奏会でこの演目を取り上げていますが、これは放送用音源なので録音はNHKのスタジオで行われた可能性が高いです。当然録音はモノラル。しかし、この時代には珍しく、前口上付きの正当な演奏です(モノラル時代では、これ以外だとバルトークレコードのジュスキント指揮の録音だけです)。節度を守りつつも要所を押さえたオケのコントロールと、年代を考えると驚異的にも思えるN響の演奏能力の高さは、軽く衝撃的でした。ローゼンストックがいかにワールドクラスの優れた指揮者であったかは、この1枚を聴くだけで端的に分かります。ハンガリー語でも独語でも英語でも仏語でもなく、他ならぬ日本語の「青ひげ公の城」はたいへんに刺激的で、歌手陣、特にユディット役の伊藤京子さん(今年88歳でまだご存命の様子)のドラマチックな歌唱は、普通に欧米スター歌手と並べて遜色なかったです。

あと残る「珍盤」は、ロジェストヴェンスキー指揮のロシア語版。何とか聴きたいと思うのですが、LPレコードのみでCD化されてないんじゃないかと、危惧しています。しかし、日本語版があるのだから、中国語版、韓国語版、タイ語版なんてのも探せばあるのかもしれませんね。