インバル/都響:バーンスタイン「カディッシュ」は政治プロパガンダの道具にあらず ― 2016/03/24 23:59
2016.03.24 サントリーホール (東京)
Eliahu Inbal / 東京都交響楽団
Judith Pisar, Leah Pisar (speakers-2)
Pavla Vykopalová (soprano-2)
二期会合唱団
東京少年少女合唱隊
1. ブリテン: シンフォニア・ダ・レクイエム Op.20
2. バーンスタイン: 交響曲第3番《カディッシュ》
昨年の夏以来だから、久々の都響です。巨匠インバルによる「レクイエム変化球」特集。嗚呼しかし、年度末のバタバタで最近心体共にお疲れ気味で、1曲目の「鎮魂交響曲」はほぼ完落ち。皇紀2600年の奉祝曲なので襟を正して聴くべきでしたが、気がつけば終わってました…。
気を取り直して、本日のお目当てのバーンスタイン「カディッシュ」。CDは2種の自作自演を持っていますが、なかなか演奏会で取り上げられる機会がないので、生では初めて。数あるバーンスタイン作品の中でも特にシリアスなもので、オリジナルのテキストによる語り手と、ソプラノ独唱、混声合唱、児童合唱が付いた壮大な交響作品です。今回の演奏は、語りのテキストが米国の外交官・作家のサミュエル・ピサールによる改変版で、当初ピサール本人が語り手をやる予定が、昨年夏に急死してしまったため、フランス人俳優のランベール・ウィルソンが代役を務めることになり、その後ピサール版テキストの使用が氏の死後は遺族の朗読に限るとされたため、未亡人のジュディスおよび娘のリアが語り手をすることで落ち着きました。
この曲は細部が指摘できるほど聴き込んでいないので大雑把なことしか言えないですが、まず、インバル率いる都響は相変わらずのキレを容赦なく発揮するプロ集団でした。指揮者の導く通りにぐんぐんと音楽が推進されていく、その心地よさ。当たり前のようで、インバル/都響の組み合わせ以外でそれを体感できるのは在京オケではめったにありません。白装束の子供と黒装束の大人という演出をしたコーラスも、定評のある合唱団だけに一貫して澄んだ歌声は素晴らしいものでした。ソプラノはちょっと不安定ながらも要所は締めていました。
一方、個人的に気に入らなかったのはナレーション。そもそも、作者の死後に第三者がリブレットをそっくり入れ替えるという行為は、いくら生前に作曲者と親交があったとはいえ、いかがなものかと思いますし、ましてや極めて政治色の強いものをこういう形で織り込むべきではないと主張したい。オリジナルのテキストが批評にさらされ、バーンスタイン自身も気に入ってなかったのは事実のようで、同様に作者の死後、実娘のジェレミー・バーンスタインもテキストを書き直して自ら朗読したりもしていますが、ピサール版で実体験に基づくホロコーストの描写に加え、作曲の経緯と全く関係がない広島・長崎まで持ち出すのは、芸術作品を陳腐な政治プロパガンダに貶めてしまう危うさを孕んでいます。
加えて、オーケストラと並行して終始語られるナレーションは、相当の「上手さ」が求められるはずですが、今日の朗読に引き込まれるものが私にはありませんでした。逆に、ナレーションがうるさくて音楽への集中を妨げられると感じる場面が多数。いくら遺言とはいえ遺族が朗読に長けているとは限らないわけで、プロフェッショナルな語りがあってこそオケの熱演も活きるのになあと、残念さが残りました。
Eliahu Inbal / 東京都交響楽団
Judith Pisar, Leah Pisar (speakers-2)
Pavla Vykopalová (soprano-2)
二期会合唱団
東京少年少女合唱隊
1. ブリテン: シンフォニア・ダ・レクイエム Op.20
2. バーンスタイン: 交響曲第3番《カディッシュ》
昨年の夏以来だから、久々の都響です。巨匠インバルによる「レクイエム変化球」特集。嗚呼しかし、年度末のバタバタで最近心体共にお疲れ気味で、1曲目の「鎮魂交響曲」はほぼ完落ち。皇紀2600年の奉祝曲なので襟を正して聴くべきでしたが、気がつけば終わってました…。
気を取り直して、本日のお目当てのバーンスタイン「カディッシュ」。CDは2種の自作自演を持っていますが、なかなか演奏会で取り上げられる機会がないので、生では初めて。数あるバーンスタイン作品の中でも特にシリアスなもので、オリジナルのテキストによる語り手と、ソプラノ独唱、混声合唱、児童合唱が付いた壮大な交響作品です。今回の演奏は、語りのテキストが米国の外交官・作家のサミュエル・ピサールによる改変版で、当初ピサール本人が語り手をやる予定が、昨年夏に急死してしまったため、フランス人俳優のランベール・ウィルソンが代役を務めることになり、その後ピサール版テキストの使用が氏の死後は遺族の朗読に限るとされたため、未亡人のジュディスおよび娘のリアが語り手をすることで落ち着きました。
この曲は細部が指摘できるほど聴き込んでいないので大雑把なことしか言えないですが、まず、インバル率いる都響は相変わらずのキレを容赦なく発揮するプロ集団でした。指揮者の導く通りにぐんぐんと音楽が推進されていく、その心地よさ。当たり前のようで、インバル/都響の組み合わせ以外でそれを体感できるのは在京オケではめったにありません。白装束の子供と黒装束の大人という演出をしたコーラスも、定評のある合唱団だけに一貫して澄んだ歌声は素晴らしいものでした。ソプラノはちょっと不安定ながらも要所は締めていました。
一方、個人的に気に入らなかったのはナレーション。そもそも、作者の死後に第三者がリブレットをそっくり入れ替えるという行為は、いくら生前に作曲者と親交があったとはいえ、いかがなものかと思いますし、ましてや極めて政治色の強いものをこういう形で織り込むべきではないと主張したい。オリジナルのテキストが批評にさらされ、バーンスタイン自身も気に入ってなかったのは事実のようで、同様に作者の死後、実娘のジェレミー・バーンスタインもテキストを書き直して自ら朗読したりもしていますが、ピサール版で実体験に基づくホロコーストの描写に加え、作曲の経緯と全く関係がない広島・長崎まで持ち出すのは、芸術作品を陳腐な政治プロパガンダに貶めてしまう危うさを孕んでいます。
加えて、オーケストラと並行して終始語られるナレーションは、相当の「上手さ」が求められるはずですが、今日の朗読に引き込まれるものが私にはありませんでした。逆に、ナレーションがうるさくて音楽への集中を妨げられると感じる場面が多数。いくら遺言とはいえ遺族が朗読に長けているとは限らないわけで、プロフェッショナルな語りがあってこそオケの熱演も活きるのになあと、残念さが残りました。
山田和樹/日フィル:マーラー「悲劇的」は、刺激的でも喜劇的でもなく ― 2016/03/26 23:59
2016.03.26 Bunkamura オーチャードホール (東京)
山田和樹 / 日本フィルハーモニー交響楽団
扇谷泰朋 (violin-1)
1. 武満徹: ノスタルジア
2. マーラー: 交響曲第6番イ短調「悲劇的」
山田和樹マーラーチクルス第2期の最終。前回お休みだったコンマスの扇谷氏が復活し、1曲目の「ノスタルギア」で実に眠たいソロを聴かせてくれました…。寝不足で聴くにはなかなかキツい曲でした、すみません。
一方、マーラー6番は個人的にもお気に入りで、生演奏の機会はできる限り出かけていくことにしていましたが、最近はちょっとご無沙汰、前に行ったのは2年前のインキネン/日フィルでした。4番、5番が「笛吹けど踊らず」系で練習不足にも見えた今回のチクルスですが、6番は少し気合を入れてネジを巻き直した様子がうかがえました。冒頭から軍靴の音をくっきりと刻むかのような行進で、続くアルマのテーマもこれ見よがしに劇的な表現。5番のときとは打って変わり、弦は芯のある音で頑張っていました。一方、管は相変わらず貧弱。まあ、トランペットは崩壊してなかったし、要所ではヤケクソ気味に音圧を張り上げていたので、それなりに迫力は出ていました。
全般的に反応が鈍いのは前と同じで、終始後乗りのもモタリ気味演奏。終楽章ではティンパニ等が振り落とされる事故も起こっていました。別に事故はあってもいいのですが、鬼気迫るドライブの代償として、ならばまだ感動もひとしおなれど、そんな演奏だったかというと…。
なお中間楽章の順序は、インキネンと同じく伝統的なスケルツォ→アンダンテの順。プレトークではハンマーを何回叩くかは聴いてのお楽しみと気を持たせていましたが、結局普通に2回だけでした。
来年はいよいよチクルス第3期の7、8、9番ですが、シリーズ買いする気は失せてしまいました。9番くらいは単発で聴きに行きたいですが。
山田和樹 / 日本フィルハーモニー交響楽団
扇谷泰朋 (violin-1)
1. 武満徹: ノスタルジア
2. マーラー: 交響曲第6番イ短調「悲劇的」
山田和樹マーラーチクルス第2期の最終。前回お休みだったコンマスの扇谷氏が復活し、1曲目の「ノスタルギア」で実に眠たいソロを聴かせてくれました…。寝不足で聴くにはなかなかキツい曲でした、すみません。
一方、マーラー6番は個人的にもお気に入りで、生演奏の機会はできる限り出かけていくことにしていましたが、最近はちょっとご無沙汰、前に行ったのは2年前のインキネン/日フィルでした。4番、5番が「笛吹けど踊らず」系で練習不足にも見えた今回のチクルスですが、6番は少し気合を入れてネジを巻き直した様子がうかがえました。冒頭から軍靴の音をくっきりと刻むかのような行進で、続くアルマのテーマもこれ見よがしに劇的な表現。5番のときとは打って変わり、弦は芯のある音で頑張っていました。一方、管は相変わらず貧弱。まあ、トランペットは崩壊してなかったし、要所ではヤケクソ気味に音圧を張り上げていたので、それなりに迫力は出ていました。
全般的に反応が鈍いのは前と同じで、終始後乗りのもモタリ気味演奏。終楽章ではティンパニ等が振り落とされる事故も起こっていました。別に事故はあってもいいのですが、鬼気迫るドライブの代償として、ならばまだ感動もひとしおなれど、そんな演奏だったかというと…。
なお中間楽章の順序は、インキネンと同じく伝統的なスケルツォ→アンダンテの順。プレトークではハンマーを何回叩くかは聴いてのお楽しみと気を持たせていましたが、結局普通に2回だけでした。
来年はいよいよチクルス第3期の7、8、9番ですが、シリーズ買いする気は失せてしまいました。9番くらいは単発で聴きに行きたいですが。
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