ロンドン響/パッパーノ/コジュヒン(p):鎮魂、不安、悲愴の時代2026/05/10 23:59



2026.05.10 Barbican Hall (London)
Sir Antonio Pappano / London Symphony Orchestra & Chorus
Denis Kozhukhin (piano-2)
1. Britten: Sinfonia da requiem
2. Bernstein: The Age of Anxiety (Symphony No 2) for piano and orchestra
3. Tchaikovsky: Symphony No 6, ‘Pathétique’

「交響曲」が3つ並ぶ、何とも暗くて重いプログラムです。最初の「鎮魂交響曲」は、皇紀2600年奉祝曲として日本政府から当時の友好国に向けて発注された委嘱作品になるはずが、様々な理由によりお蔵入りしてしまった曰く付きの曲です。前回実演を聞いたのはちょうど10年前、2016年のインバル/都響で、あらためて気づいたのですがこのときのメイン曲はバーンスタインの交響曲第3番「カディッシュ」でした。ブリテンとバーンスタインのカップリングは今日の演奏会と同じですが、まあこれは単なる偶然かと。さて本日のパッパーノ指揮による「鎮魂交響曲」は、終始繊細かつ大胆でドラマチックな演出が施された、激しいレクイエムでした。フィルハーモニアのアンディ・スミスさん引退後にロンドンのクセ強ティンパニストといったらこの人、ナイジェル・トーマスさんが両手で叩き込むティンパニは相変わらず説得力のある良い音でした。しかしこの曲、編成も大きいしかなりの難曲なので、一定以上のクオリティで演奏するのは作曲された当時の日本のオケに可能だったのかどうか。結局皇紀2600年奉祝曲としては演奏されず、日本初演は戦後1956年になってから、ブリテン本人がN響に客演しての機会だったというのが意味深です。

続くバーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」は、実質的にはピアノ協奏曲として扱われますが、バーンスタインの交響曲に共通する傾向として、彼のミュージカル作品から期待される明るいエンターテインメントからほど遠い、クソ真面目に小難しく地味な曲というイメージが拭えません。特にこの曲は普通の三管編成でそんなに大規模ではなく、意外にもサキソフォーンが先のブリテンでは使われていたのにこちらのバーンスタインでは排除されているという不思議。前回実演を聴いたのは2018年のヴォルコフ/読響、ピアノは河村尚子でした。今日の演奏会、元々はイタリア人のベアトリーチェ・ラナがソリストとしてアナウンスされていたものの、妊娠・出産のため代役でロシア人のデニス・コジュヒンの登場となりました。コジュヒンはちょうど2年前に沖澤/N響の演奏会でラヴェルの「左手のための協奏曲」を聴いていますが、左手の技術が非常に卓越しているのはわかりました(笑)。やっと聴ける両手でのヴィルトゥオーソ演奏はいががなものかと期待したところ、ピアノコンチェルト的性格が強いとは言え派手な見せ場があるわけでもないこの曲で、前面に飛び出ることなくオケと一体化しつつも、ピアノソロの役割を過不足なく果たすかっちりとしたピアノでした。もちろんこれはパッパーノとの競作でもありますし、他の曲だったらどうかわからないのですが、色がないけど安定感は抜群の、音楽家に信頼される音楽家、という感じがしました。終盤に突然ジャズが乱入してくる「仮面舞踏会」は、全然ノリノリではなく、オケもピアノもあえてジャジーな雰囲気を封印し、まるでショスタコーヴィチのスケルツォ楽章のような諧謔性だけ残したように聴こえましたので、ジャズができなかったのではなく、やらなかったのだと理解しました。最後に向けてオケを解放し慣らし切ったパッパーノとLSO、苦悩から始まり救いで終わる充実感を十分に味わえました。コジュヒンのアンコールもやはり地味な曲で、この曲はもしや2年前と同じ曲ではと思ったら、やっぱり同じくチャイコフスキーの「教会にて」という小品でした。よほどのお気に入りなのでしょう。

なお余談ですが、コジュヒンは楽譜にタブレットを使用していました。10年くらい前から特にピアニストで紙の代わりにタブレットを使う人がちらほら増えてきたように思いますが(他のソリストはそもそも暗譜が多い)、一方で指揮者やオケの各奏者でタブレットを見ることはまだなく、電子化までの道のりはなかなか遠いように思いました。いずれは電子化されるとは思いますが、その時はもはやタブレットではなくスマートグラス、あるいは今では想像つかない革新デバイスになっちゃうのかもしれません。

前半の2曲がどちらも暗く陰々滅々と始まり、最後は救いで終わるのに対し、本日のメイン「悲愴」はそのパターンを裏切るチャレンジングな曲(だった、少なくとも作曲当時は)と言えるでしょうか。先の第4番を聴いたときにも感じたのですが、パッパーノのチャイコフスキーはかつてのベルカント的でメランコリックなアプローチが影を潜め、かといって即物的とまでは言いにくい中庸寄りの「いい感じ」な進行になっています。湿度の高い粘りを見せるでもなく、第3楽章までは淡々キビキビと進み、そこにクライマックスを持ってくるかのような造形は、まさに前半の2曲の進行をなぞるような感じになっていて、馬力抜群で機能的なLSOの演奏と相まって大いに盛り上がったのですが、これは危ないぞと思っていたら、案の定、第4楽章が始まる前に拍手とブラヴォー。やはりこの箇所で緊張感を保ったまま継続するのは至難の技のようですが、それにしてもブラヴォーは要らんぞ。気を取り直して開始した最終楽章、ここでパッパーノは突然ギアチェンジして、思い入れたっぷりにきめ細かくフレーズを紡いでいきます。テンポは相変わらず速めですが、歌わせ方がいちいち濃い。ダイナミクスも気にせず、弱音なしで泣きを入れてきます。第3楽章がクライマックスと見せかけて、第4楽章で別世界の極限を見せる、なかなか面白いアプローチだと思いました。死を暗示する終盤近くの銅鑼の弱い一撃、ベテランのニール・パーシーが絶妙の音量、タイミングで鳴らしたのも非常に良い感じでした(たった一発だけの出番ですが、銅鑼という楽器の特性もあり、これとっても難しいんですよ)。

パッパーノの「マカロニ・チャイコ」シリーズと私が勝手に呼んでいる後期交響曲の連続演奏会は、13年前には4番、5番を聴けてこの第6番だけ聴き逃したのですが、今シーズンはすでに第4番を聴いたので、あとは来シーズンの第5番を残すのみです。ただ、他の演奏会と日程が被っていたりして、さてどうしたもんかと思案中です。

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