ジョン・ケージ・ナイト:4分33秒の不安と、0分00秒の納得2011/09/13 23:59


2011.09.13 Queen Elizabeth Hall (London)
John Cage Night
performed by Apartment House:
Nancy Ruffer (Fl), Andrew Sparling (Cl)
Gordon Mackay (Vn), Hilary Sturt (Vn)
Bridget Carey (Va), Anton Lukoszevieze (Vc)
Philip Thomas (P), Simon Limbrick (Perc)
1. Cage: 4' 33" (1952)
2. Cage: Radio Music for eight performers (1956)
3. Cage: Child of Tree for solo percussion (1975)
4. Cage: Concert for piano & orchestra/Fontana Mix (1957-58)
5. Cage: String Quartet in four parts (1949-50)
6. Cage: Music for eight (1984-87)
7. Cage: 0' 00" (4' 33" No. 2) (1962)

実はワタクシ、「4分33秒」のCDなるものを持っております。ハンガリーのアマディンダ・パーカッショングループのCDを買ったら他のケージの曲と一緒に入っていたのですが、当然ながら収録されているのは4分33秒分の「無音」で、そのCDを聴くときは結局そのトラックはスキップしてしまいます…。やはりこの曲は実演を体験してこそナンボ。遠い将来、孫に「その昔、“4分33秒”という風変わりな曲があってのう…」と昔話を語ってやりたいと、ほとんどそれだけのために足を運びました。

ジョン・ケージ・ナイトと題したこの演奏会は、International Chamber Music Festival 2011/12の開幕でもあります。文字通りケージの作品(「曲」とか「音楽」とはもはや言えないものもあります)だけを初期から晩年まで網羅するプログラムで、全くの変化球とはいえ、室内楽でシーズンを開けるとは私として非常に珍しいことです。チケットはソールドアウトで、リターン待ちの行列ができていました。最初に司会の人が出てきて、シーズン開幕の挨拶と共に、この著名な作品の上演にあたって、くれぐれも携帯の電源を切るように、と念押しをして笑いを取っていました。

「4分33秒」はプログラムによると初演時の演奏時間に倣って第1楽章30秒、第2楽章2分40秒、第3楽章1分20秒とおおよその演奏時間が規定されております。ピアニストが一人で登場し、ピアノの前に座って、鍵盤にすっと手を伸ばし、音を出さずに指を軽く鍵盤に置いたままの姿勢でじっと30秒待ちます。ストップウォッチか何かで正確な時間を計っている風には見えませんでした。第1楽章が終わると一旦手を引っ込め、再び手を出して、今度は2分40秒じっと動きません。第3楽章も同様です。自分の腕時計を見ていた限り、概ねその通りの時間を守った「忠実な演奏」でした。まず感じたのは、この居心地の悪さは他にないなあ、ということ。普段の演奏会場と比べたらこれ以上はないというほどの静寂がありましたが(普段もこのくらい静かだったらなあ!)、当然のことながら完全な無音状態は実世界ではほとんどあり得ず、小さな咳の音、衣服や紙のこすれる音、ヒソヒソ声に加えて、キーンという軽い耳鳴りも絶えず体内に鳴っており、かのように世界はノイズに溢れているのに、奏者の発する音だけが何も聴こえないというこの不条理。子供のころのかくれんぼ遊びで、暗がりで声をひそめ、音も一切出さないように隠れていると、何故だか笑いがこみ上げてきてしまうあの懐かしい感覚も少し思い出しました。私は修行が足らないのでしょう、そんなこんなの邪念だらけで、静寂を無心に享受するには程遠く、気持ちの落ち着かないことと言ったらありませんでした。逆説的な意味で、近年これほど心を動かされた「演奏」もそうそうありません。ただ、また聴きたいかと言うと微妙なところ。一度体験したらもういいや、という思いと、でもちょっと病みつきになってしまいそうな麻薬性も半分感じます。これがもし「14分33秒」だったら二度と御免ですが、5分弱という時間がなかなか絶妙ではあります。

2曲目の「ラジオ音楽」は8人各々が大小さまざまなラジオを持って出てきて、(多分)楽譜の指示に従いつつチューニングを動かします。聴こえてくるのはノイズだったり、ニュースだったり、音楽だったり、演奏中にオンエアされている放送プログラムによって内容が変わる「不確定性の音楽」ですが、果たしてこれは「音楽」と言えるのかと素朴な疑問が。それを突き詰めて考えるのがすなわちケージの「音楽」なんでしょうけど。

3曲目、ソロ打楽器のための「木の子供」は、全て植物が原材料の、伝統的な楽器とはとても見なせないような様々なオブジェクトを叩いたりこすったり折ったり破いたりして、出た音をマイクで拾い拡声します。鉢植えのサボテンがチャカポコとけっこういい音がしていました。これも、いい年したおっさんが道端に落ちている木の切れ端を適当に叩いて遊んでいるのと何が違うのか、よくわかりません。


4曲目の「ピアノ協奏曲/フォンタナ・ミックス」はプリペアード・ピアノに弦楽四重奏、フルート、クラリネットという編成で、ようやく普通の楽器が出てきてほっとしました。このような曲でも(失礼!)、演奏前にちゃんとチューニングをやるんですねえ。しかし曲はやっぱり実験的要素の強い「不確定性の音楽」で、フルスコアはなく、各パートの断片をアトランダムに繋げてぶつけていくというもの。ただ楽器を演奏するだけでなく、ピアニストは横に置いたペンキ缶のようなものを叩き、他の奏者も時々掛け声のような声を出したり、足を踏み鳴らしたりと賑やかです。演奏時間は20分近くもあり、とにかく長かった。

休憩後の最初は弦楽四重奏曲。初期の作品で、これははっきりと調性・旋律の明確な音楽をベースにメタモルフォーゼしていった感じで、不協和音は多いものの、不安定さや不確定さはなく、格段に聴きやすい音楽でした。むしろ不安定だったのは音程で、ただこれも含めて楽譜に忠実だったのか、あるいはただ単に奏者の力量不足かは判断つきませんでした。

続く「8人のための音楽」は逆に最晩年の作品で、先の「ピアノ協奏曲/フォンタナ・ミックス」とコンセプトはよく似ています。ただし受ける印象はずいぶんと違っていて、多数の小物打楽器と銅鑼代わりの鉄板、床に置いたチャイナシンバル等に囲まれた打楽器奏者が絶えず何か音を出し続け、時にはうるさく叩きまくって、それが20分という長丁場で曲全体の包絡線を形作るのに役立っていました。ピアノはプリペアードではなさそうでしたが、馬のタテガミを弦に通し、引いて音を出すという、相変わらずの飛びっぷりでした。皆さん、一所懸命楽譜を見ながら演奏しておりましたが、いったいそこには何が書いてあるのか興味あります(実は何も書いてないんじゃないのか、何て…)。

最後は「0分00秒」という、「4分33秒」の第2番という位置づけの作品。Wikipediaで調べると、初演は日本で行われたようです。ここでは演奏者が何か「日常的な行為」を行い、その音がマイクとアンプを通して拡声されるというコンセプトだそうですが、この日彼らが選んだ「日常的な行為」は何と「後片付け」。前の曲が終わって一旦引っ込み、またすぐ出てきていそいそと楽器や譜面台を片付けていくものだから、一部の人はもう演奏会が終わったものと勘違いし、席を立ってどやどや帰っていきました。しかし、片付けのノイズがちゃんとピックアップされてスピーカーで流れていましたので、これがまさに今日の「0分00秒」なのでした。一石二鳥のよいアイデアですが、一つ気になったのは、この作品では「すでに行ったことのある行為を採用してはならない」そうなので、果たしてこのアイデアは過去に一切誰もやらなかったのかな、と。まあ、演奏機会がそんなにあったとも思えないし、多分大丈夫なんでしょう。

私はケージの芸術にも、モダンアート一般にも、造詣はほとんどありませんし、お前は今日のパフォーマンスが理解できたのかと聞かれたら、多分さっぱり理解してないと答えるしかないでしょう。ただ、昨年ヴァレーズをまとめて聴いた際にはその突き放したような前衛音楽の前にあえなく討ち死にしましたが、今日も前衛ぶりではひけをとらないプログラムだったにもかかわらず、不思議と心にすんなり溶け込んでくるような「身に馴染む」感覚がありました。ケージが禅に傾倒していて、東洋的(または非西洋的)なものを探求し続けていたことが、もしかすると関係あるのかもしれません。